》戻って、段々にちょっと区劃《くぎり》のある、すぐに手を立てたように石坂がまた急になる、平面な処で、銀杏《いちょう》の葉はまだ浅し、樅《もみ》、榎《えのき》の梢《こずえ》は遠し、楯《たて》に取るべき蔭もなしに、崕《がけ》の溝端《どぶばた》に真俯向《まうつむ》けになって、生れてはじめて、許されない禁断の果《このみ》を、相馬の名に負う、轡をガリリと頬張る思いで、馬の口にかぶりついた。が、甘《うま》さと切なさと恥かしさに、堅くなった胸は、自《おのず》から溝《どぶ》の上へのめって、折れて、煎餅は口よりもかえって胃の中でボリボリと破《わ》れた。
 ト突出《つきだし》た廂《ひさし》に額を打たれ、忍返《しのびがえし》の釘に眼を刺され、赫《かっ》と血とともに総身《そうしん》が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上《よじのぼ》る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、頭《こうべ》に映《さ》す太陽は、血の色して段に流れた。
 宗吉はかくてまた明神の御手洗《みたらし》に、更に、氷に閑《とじ》らるる思いして、悚然《ぞっ》と寒気を感じたのである。
「くすくす、くすくす。」
 花骨牌《はちはち》の車座の、輪に身を捲《ま》かるる、危《あやう》さを感じながら、宗吉が我知らず面《おもて》を赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。
「おっと来た、めしあがれ。」
 と一枚めくって合せながら、袋をお千さんの手に渡すと、これは少々疲れた風情で、なかまへは入らぬらしい。火鉢を隔てたのが請取って、膝で覗《のぞ》くようにして開けて、
「御馳走様ですね……早速お毒見。」
 と言った。
 これにまた胸が痛んだ。だけなら、まださほどまでの仔細はなかった。
「くすくす、くすくす。」
 宗吉がこの座敷へ入りしなに、もうその忍び笑いの声が耳に附いたのであるが、この時、お千さんの一枚|撮《つま》んだ煎餅を、見ないように、ちょっと傍《わき》へかわした宗吉の顔に、横から打撞《ぶつか》ったのは小皿の平四郎。……頬骨の張った菱形の面《つら》に、窪《くぼ》んだ目を細く、小鼻をしかめて、
「くすくす。」
 とまた遣った。手にわるさに落ちたと見えて札は持たず、鍍金《めっき》の銀煙管《ぎんぎせる》を構えながら、めりやすの股引《ももひき》を前はだけに、片膝を立てていたのが、その膝頭に頬骨をたたき着けるようにして、
「くすくすくす。」
 続けて忍び笑《わらい》をしたのである。
 立続《たてつ》けて、
「くッくッくッ。」

       七

「こっちは、びきを泣かせてやれか。」
 と黄八丈が骨牌《ふだ》を捲《めく》ると、黒縮緬の坊さんが、紅《あか》い裏を翻然《ひらり》と翻《かえ》して、
「餓鬼め。」
 と投げた。
「うふ、うふ、うふ。」と平四郎の忍び笑が、歯茎を洩《も》れて声に出る。
「うふふ、うふふ、うふふふふふ。」
「何じゃい。」と片手に猪口《ちょく》を取りながら、黒天鵝絨《くろびろうど》の蒲団《ふとん》の上に、萩、菖蒲《あやめ》、桜、牡丹《ぼたん》の合戦を、どろんとした目で見据えていた、大島揃《おおしまぞろい》、大胡坐《おおあぐら》の熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は蕃椒《とうがらし》を食ったように、赤くなるまで赫《かっ》と競勢《きお》って、
「うはははは、うふふ、うふふ。うふふ。えッ、いや、あ、あ、チ、あははははは、はッはッはッはッ、テ、ウ、えッ、えッ、えッ、えへへ、うふふ、あはあはあは、あは、あはははははは、あはははは。」
「馬鹿な。」
 と唇を横舐《よこな》めずって、熊沢がぬっと突出した猪口に、酌をしようとして、銅壺《どうこ》から抜きかけた銚子《ちょうし》の手を留め、お千さんが、
「どうしたの。」
「おほほ、や、お尋ねでは恐入るが、あはは、テ、えッ。えへ、えへへ、う、う、ちえッ、堪《たま》らない。あッはッはッはッ。」
「魔が魅《さ》したようだ。」
 甘谷が呆《あき》れて呟《つぶや》く、……と寂然《しん》となる。
 寂寞《しん》となると、笑《わらい》ばかりが、
「ちゃはははは、う、はは、うふ、へへ、ははは、えへへへへ、えッへ、へへ、あははは、うは、うは、うはは。どッこい、ええ、チ、ちゃはは、エ、はははは、ははははは、うッ、うッ、えへッへッへッ。」
 と横のめりに平四郎、煙管の雁首《がんくび》で脾腹《ひばら》を突《つつ》いて、身悶《みもだ》えして、
「くッ、苦しい……うッ、うッ、うッふふふ、チ、うッ、うううう苦しい。ああ、切ない、あはははは、あはッはッはッ、おお、コ、こいつは、あはは、ちゃはは、テ、チ、たッたッ堪らん。ははは。」
 と込上げ揉立《もみた》て、真赤《まっか》になった、七|顛《てん》八|倒《とう》の息継《いきつぎ》に、つぎ冷《ざま》しの茶を取って、がぶりと遣ると、
「わッ。」と咽《む》せて、灰吹を掴《つか》んだが間に合わず、火入の灰へぷッと吐くと、むらむらと灰かぐら。
「ああ、あの児《こ》、障子を一枚開けていな。」
 と黒縮緬の袖で払って出家が言った。
 宗吉は針の筵《むしろ》を飛上るように、そのもう一枚、肘懸窓《ひじかけまど》の障子を開けると、颯《さっ》と出る灰の吹雪は、すッと蒼空《あおぞら》に渡って、遥《はるか》に品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛《まつげ》に一眸《ひとめ》の北の方《かた》、目の下、一雪崩《ひとなだれ》に崕《がけ》になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南《ひなた》の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。
 ト斜《ななめ》に、がッくりと窪《くぼ》んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈蚣《おおむかで》のように胸前《むなさき》に畝《うね》って、突当りに牙《きば》を噛合《かみあ》うごとき、小さな黒塀の忍び返《がえし》の下に、溝《どぶ》から這上《はいあが》った蛆《うじ》の、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、麸《ふ》を嘗《な》めるような形が、歴然《ありあり》と、自分《おの》が瞳に映った時、宗吉はもはや蒼白《まっさお》になった。
 ここから認《み》られたに相違ない。
 と思う平四郎は、涎《よだれ》と一所に、濡らした膝を、手巾《ハンケチ》で横撫でしつつ、
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。」……大歎息《おおためいき》とともに尻を曳《ひ》いたなごりの笑《わらい》が、更に、がらがらがらと雷の鳴返すごとく少年の耳を打つ!……
「お煎《せん》をめしあがれな。」
 目の下の崕が切立《きった》てだったら、宗吉は、お千さんのその声とともに、倒《さかしま》に落ちてその場で五体を微塵《みじん》にしたろう。
 産《うみ》の親を可懐《なつか》しむまで、眉の一片《ひとひら》を庇《かば》ってくれた、その人ばかりに恥かしい。……
「ちょっと、宅《うち》まで。」
 と息を呑んで言った――宅とは露路のその長屋で。
 宗吉は、しかし、その長屋の前さえ、遁隠《にげかく》れするように素通りして、明神の境内のあなたこなた、人目の隙《すき》の隅々に立って、飢《うえ》さえ忘れて、半日を泣いて泣きくらした。
 星も曇った暗き夜《よ》に、
「おかみさん――床屋へ剃刀を持って参りましょう。ついでがございますから……」
 宗吉はわざと格子戸をそれて、蚯蚓《みみず》の這うように台所から、密《そっ》と妾宅へおとずれて、家主の手から剃刀を取った。
 間《ま》を隔てた座敷に、艶《あで》やかな影が気勢《けはい》に映って、香水の薫《かおり》は、つとはしり下《もと》にも薫った。が、寂寞《ひっそり》していた。
 露路の長屋の赤い燈《あかり》に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿《かむろ》なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、音《ね》を憚《はばか》る出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖《さいわい》だったのである。

       八

「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、串戯《じょうだん》ではありません。」
 社殿の裏なる、空茶店《あきちゃみせ》の葦簀《よしず》の中で、一方の柱に使った片隅なる大木の銀杏《いちょう》の幹に凭掛《よりかか》って、アワヤ剃刀を咽喉《のど》に当てた時、すッと音して、滝縞《たきじま》の袖で抱いたお千さんの姿は、……宗吉の目に、高い樹の梢から颯《さっ》と下りた、美しい女の顔した不思議な鳥のように映った――
 剃刀をもぎ取られて後は、茫然《ぼうぜん》として、ほとんど夢心地である。
「まあ! 可《よ》かった。」
 と、身を捻《ね》じて、肩を抱きつつ、社《やしろ》の方を片手拝みに、
「虫が知らしたんだわね。いま、お前さんが台所で、剃刀を持って行《ゆ》くって声が聞えたでしょう、ドキリとしたのよ。……秦さん秦さんと言ったけれど、もう居ないでしょう。何だかね、こんな間違がありそうな気がしてならない、私。私、でね、すぐに後から駆出したのさ。でも、どこって当《あて》はないんだもの、鳥居前のあすこの床屋で聞いてみたの。まあね、……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中で、それでも私がここへ来たのは神仏《かみほとけ》のお助けです。秦さん、私が助けるんだと思っちゃあ不可《いけな》い。可《よ》うござんすか、可《い》いかえ、貴方《あなた》。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。可《よう》ござんすか、分りましたか。」
 と小児《こども》のように、柔い胸に、帯も扱帯《しごき》もひったりと抱き締めて、
「御覧なさい、お月様が、あれ、仏様《ののさん》が。」
 忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりに掛《かか》ったのが、可懐《なつかし》い亡き母の乳房の輪線の面影した。
「まあ、これからという、……女にしても蕾《つぼみ》のいま、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……ええ、それが私に恥かしくって、――」
 その乳《ち》の震《ふるえ》が胸に響く。
「何の塩煎餅の二枚ぐらい、貴方が掏賊《ちぼ》でも構やしない――私はね、あの。……まあ、とにかく、内へ行《ゆ》きましょう。可《い》い塩梅《あんばい》に誰も居ないから。」
 促して、急いで脱放しの駒下駄を捜《さぐ》る時、白脛《しらはぎ》に緋《ひ》が散った。お千も慌《あわただ》しかったと見えて、宗吉の穿物《はきもの》までは心着かず、可恐《おそろ》しい処を遁《に》げるばかりに、息せいて手を引いたのである。
 魔を除《よ》け、死神を払う禁厭《まじない》であろう、明神の御手洗《みたらし》の水を掬《すく》って、雫《しずく》ばかり宗吉の頭髪《かみ》を濡らしたが、
「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」
 と、手よりも濡れた瞳を閉じて、頸《えり》白く、御堂《みどう》をば伏拝み、
「一口めしあがれ、……気を静めて――私も。」
 と柄杓《ひしゃく》を重げに口にした。
「動悸《どうき》を御覧なさいよ、私のさ。」
 その胸の轟《とどろ》きは、今より先に知ったのである。
「秦さん、私は貴方を連れて、もうあすこへは戻らない。……身にも命にもかえてね、お手伝をしますがね、……実はね、今明神様におわびをして、貴方のお頭《つむ》を濡らしたのは――実は、あの、一度内へ帰ってね。……この剃刀で、貴方を、そりたての今道心にして、一緒に寝ようと思ったのよ。――あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、そこへ、熊沢だの甘谷だのが踏込んで、不義いたずらの罪に落そうという相談に……どうでも、と言って乗せられたんです。
 ……あの坊さんは、高野山とかの、金高《かねだか》なお宝ものを売りに出て来ているんでしょう。どことかの大金持だの、何省の大臣だのに売ってやると言って、だまして、熊沢が皆質に入れて使ってしまって、催促される、苦しまぎれに、不断、何だか私にね、坊さんが厭味《いやみ》らしい目つきをするのを知っていて、まあ大それた美人局《つつもたせ》だわね。
 私が弱いもんだから、身体《からだ》も度胸もずばぬけて強そうな、あの人をたよりにして、こん
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