ろ》を凌《しの》いでいた。
 その人たちというのは、主に懶惰《らんだ》、放蕩《ほうとう》のため、世に見棄てられた医学生の落第なかまで、年輩も相応、女房持《にょうぼうもち》なども交《まじ》った。中には政治家の半端もあるし、実業家の下積、山師も居たし、真面目《まじめ》に巡査になろうかというのもあった。
 そこで、宗吉が当時寝泊りをしていたのは、同じ明神坂の片側長屋の一軒で、ここには食うや食わずの医学生あがりの、松田と云うのが夫婦で居た。
 その突当りの、柳の樹に、軒燈の掛った見晴《みはらし》のいい誰かの妾宅《しょうたく》の貸間に居た、露の垂れそうな綺麗なのが……ここに緋縮緬の女が似たと思う、そのお千さんである。

       四

 お千は、世を忍び、人目を憚《はばか》る女であった。宗吉が世話になる、渠等《かれら》なかまの、ほとんど首領とも言うべき、熊沢という、追《おっ》て大実業家となると聞いた、絵に描いた化地蔵《ばけじぞう》のような大漢《おおおとこ》が、そんじょその辺のを落籍《ひか》したとは表向《おもてむき》、得心させて、連出して、内証で囲っていたのであるから。
 言うまでもなく商売人《くろうと》だけれど、芸妓《げいしゃ》だか、遊女《おいらん》だか――それは今において分らない――何しろ、宗吉には三ツ四ツ、もっとかと思う年紀上の綺麗な姉さん、婀娜《あだ》なお千さんだったのである。
 前夜まで――唯今《ただいま》のような、じとじと降《ぶり》の雨だったのが、花の開くように霽《あが》った、彼岸前の日曜の朝、宗吉は朝飯前《あさはんまえ》……というが、やがて、十時。……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。
 妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのお誂《あつら》え、夜中一時頃に蕎麦《そば》の出前が、芬《ぷん》と枕頭《まくらもと》を匂って露路を入ったことを知っているので、行《ゆ》けば何かあるだろう……天気が可《い》いとなお食べたい。空腹《すきばら》を抱いて、げっそりと落込むように、溝《みぞ》の減った裏長屋の格子戸を開けた処へ、突当りの妾宅の柳の下から、ぞろぞろと長閑《のどか》そうに三人出た。
 肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の主人《あるじ》で。一度戸口へ引込《ひっこ》んだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、
「どうした。」
 と小声で言った。
「まだ、お寝《よ》ってです。」
 起きるのに張合がなくて、細君の、まだ裸体《はだか》で柏餅《かしわもち》に包《くる》まっているのを、そう言うと、主人はちょっと舌を出して黙って行《ゆ》く。
 次のは、剃《そ》りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面《ほそおもて》の色の白いのが、鼠の法衣下《ころもした》の上へ、黒縮緬の五紋《いつつもん》、――お千さんのだ、振《ふり》の紅《あか》い――羽織を着ていた。昨夜《ゆうべ》、この露路に入った時は、紫の輪袈裟《わげさ》を雲のごとく尊く絡《まと》って、水晶の数珠《じゅず》を提げたのに。――
 と、うしろから、拳固《げんこ》で、前の円い頭をコツンと敲《たた》く真似して、宗吉を流眄《ながしめ》で、ニヤリとして続いたのは、頭毛《かみのけ》の真中《まんなか》に皿に似た禿《はげ》のある、色の黒い、目の窪《くぼ》んだ、口の大《おおき》な男で、近頃まで政治家だったが、飜って商業に志した、ために紋着《もんつき》を脱いで、綿銘仙の羽織を裄短《ゆきみじか》に、めりやすの股引《ももひき》を痩脚《やせずね》に穿《は》いている。……小皿の平四郎。
 いずれも、花骨牌《はちはち》で徹夜の今、明神坂の常盤湯《ときわゆ》へ行ったのである。
 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。
「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」
 とお千さんは、伊達巻一つの艶《えん》な蹴出《けだ》しで、お召の重衣《かさね》の裙《すそ》をぞろりと引いて、黒天鵝絨《くろびろうど》の座蒲団《ざぶとん》を持って、火鉢の前を遁《に》げながらそう言った。
「何、目下は私《あっし》たちの小僧です。」
 と、甘谷《あまや》という横肥《よこぶと》り、でぶでぶと脊の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、前掛《まえかけ》の真田《さなだ》をちょきんと結んだ、これも医学の落第生。追って大実業家たらんとする準備中のが、笑いながら言ったのである。
 二人が、この妾宅の貸ぬしのお妾《めかけ》――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の室《ま》へ立った間《ま》に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、
「御苦労々々。」
 と、調子づいて、
「さあ、貴女《あなた》。」
 と、甘谷が座蒲団を引攫《ひっさら》って、もとの処へ。……身体《からだ》に似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着《よぎ》で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に外出《そとで》がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。
 対《つい》の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、
「さ、さ、貴女。」
 と自分は退《の》いて、
「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居《たちい》が石臼《いしうす》を引摺《ひきず》るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気《かっけ》がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。
「可厭《いや》ですことねえ。」
 と、婀娜な目で、襖際《ふすまぎわ》から覗《のぞ》くように、友染の裾《すそ》を曳《ひ》いた櫛巻の立姿。

       五

 桜にはちと早い、木瓜《ぼけ》か、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南《ひなた》の薫《かおり》が添って、お千がもとの座に着いた。
 向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと胡坐《あぐら》を組むのであろう。
「お留守ですか。」
 宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢を訊《き》いたのである。
 縁側の片隅で、
「えへん!」と屋鳴りのするような咳払《せきばらい》を響かせた、便所の裡《なか》で。
「熊沢はここに居《お》るぞう。」
「まあ。」
「随分ですこと、ほほほ。」
 と家主《いえぬし》のお妾が、次の室《ま》を台所へ通《とおり》がかりに笑って行《ゆ》くと、お千さんが俯向《うつむ》いて、莞爾《にっこり》して、
「余《あんま》り色気がなさ過ぎるわ。」
「そこが御婦人の毒でげす。」
 と甘谷は前掛をポンポンと敲《たた》いて、
「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。」
「あら、随分……酷《ひど》いじゃありませんか、甘谷さん、余《あんま》りだよ。」
 何にも知らない宗吉にも、この間違は直ぐ分った、汚いに相違ない。
「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」
 甘谷は立続けに叩頭《おじぎ》をして、
「そこで、おわびに、一つ貴女の顔を剃《あた》らして頂きやしょう。いえ、自慢じゃありませんがね、昨夜《ゆうべ》ッから申す通り、野郎|図体《ずうたい》は不器用でも、勝奴《かつやっこ》ぐらいにゃ確《たしか》に使えます。剃刀《かみそり》を持たしちゃ確《たしか》です。――秦君、ちょっと奥へ行って、剃刀を借りて来たまえ。」
 宗吉は、お千さんの、湯にだけは密《そっ》と行っても、床屋へは行《ゆ》けもせず、呼ぶのも慎むべき境遇を頷《うなず》きながら、お妾に剃刀を借りて戻る。……
「おっと!……ついでに金盥《かなだらい》……気を利かして、気を利かして。」
 この間に、いま何か話があったと見える。
「さあ、君、ここへ顔を出したり、一つ手際を御覧に入れないじゃ、奥さん御信用下さらない。」
「いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そんなでもないんですから。」
「何、御遠慮にゃあ及びません。間違った処でたかが小僧の顔でさ。……ちょうど、ほら、むく毛が生えて、※[#「滔」の「さんずい」に代えて「しょくへん」、第4水準2−92−68]子《あんこ》の撮食《つまみぐい》をしたようだ。」
 宗吉は、可憐《あわれ》やゴクリと唾《つ》を呑んだ。
「仰向いて、ぐっと。そら、どうです、つるつるのつるつると、鮮かなもんでげしょう。」
「何だか危《あぶな》ッかしいわね。」
 と少し膝を浮かしながら、手元を覗いて憂慮《きづかわ》しそうに、動かす顔が、鉄瓶の湯気の陽炎《かげろう》に薄絹を掛けつつ、宗吉の目に、ちらちら、ちらちら。
「大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、」
「あれ、止《よ》して頂戴、止してよ。」
 と浮かした膝を揺ら揺らと、袖が薫って伸上る。
「なぜですてば。」
「危いわ、危いわ。おとなしい、その優しい眉毛《まみえ》を、落したらどうしましょう。」
「その事ですかい。」
 と、ちょっと留めた剃刀をまた当てた。
「構やしません。」
「あれ、目の縁はまだしもよ、上は止して、後生だから。」
「貴女の襟脚を剃《す》ろうてんだ。何、こんなものぐらい。」
「ああ、ああああ、ああーッ。」
 と便所の裡《なか》で屋根へ投げた、筒抜けな大欠伸《おおあくび》。
「笑っちゃあ……不可《いけな》い不可い。」
「ははははは、笑ったって泣いたって、何、こんな小僧ッ子の眉毛《まゆげ》なんか。」
「厭《いや》、厭、厭。」
 と支膝《つきひざ》のまま、するすると寄る衣摺《きぬずれ》が、遠くから羽衣の音の近《ちかづ》くように宗吉の胸に響いた……畳の波に人魚の半身。
「どんな母《おっか》さんでしょう、このお方。」
 雪を欺く腕《かいな》を空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにして熟《じっ》と視《み》た。
「羨《うらやま》しい事、まあ、何て、いい眉毛《まみえ》だろう。親御はさぞ、お可愛いだろうねえ。」
 乳も白々と、優しさと可懐《なつか》しさが透通るように視《み》えながら、衣《きぬ》の綾《あや》も衣紋《えもん》の色も、黒髪も、宗吉の目の真暗《まっくら》になった時、肩に袖をば掛けられて、面《おもて》を襟に伏せながら、忍び兼ねた胸を絞って、思わず、ほろほろと熱い涙。
 お妾が次の室《ま》から、
「切れますか剃刀は……あわせに遣《や》ろう遣ろうと思いましちゃあ……ついね……」

 自殺をするのに、宗吉は、床屋に持って行《ゆ》きましょう、と言って、この剃刀を取って出た。それは同じ日の夜《よ》に入《い》ってからである。
 仔細《しさい》は……

       六

 ……さて、やがて朝湯から三人が戻って来ると、長いこと便所に居た熊沢も一座で、また花札を弄《もてあそ》ぶ事になって、朝飯は鮨《すし》にして、湯豆腐でちょっと一杯、と言う。
 この使《つかい》のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立《きったて》の段を下りた宮本町の横小路に、相馬《そうま》煎餅《せんべい》――塩煎餅の、焼方の、醤油《したじ》の斑《ふ》に、何となく轡《くつわ》の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉がこれを買いに遣られたのが事の原因《おこり》であった。
 何分にも、十六七の食盛《くいざか》りが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるように嶮《けわ》しい石段を下りたドン底の空腹《ひもじ》さ。……天麩羅《てんぷら》とも、蕎麦《そば》とも、焼芋とも、芬《ぷん》と塩煎餅の香《こうば》しさがコンガリと鼻を突いて、袋を持った手がガチガチと震う。近飢《ちかがつ》えに、冷い汗が垂々《たらたら》と身うちに流れる堪え難さ。
 その時分の物価で、……忘れもしない七銭が煎餅の可なり嵩《かさ》のある中から……小判のごとく、数二枚。
 宗吉は、一坂《ひとさか
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