な身裁《しだら》になったけれど、……そんな相談をされてからはね……その上に、この眉毛《まみえ》を見てからは……」
と、お千は密《そっ》と宗吉の肩を撫でた。
「つくづく、あんな人が可厭《いや》になった。――そら、どかどかと踏込むでしょう。貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、溜飲《りゅういん》を下げてやろうと思ったけれど……どんな発機《はずみ》で、自棄腹《やけばら》の、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないから、といま胸に手を置いて、分別をしたんですよ。
さ、このままどこかへ行《ゆ》きましょう。私に任して安心なさいよ。……貴方もきっとあの人たちに二度とつき合っては不可《いけ》ません。」
裏崕《うらがけ》の石段を降りる時、宗吉は狼の峠を越して、花やかな都を見る気がした。
「ここ……そう……」
お千さんが莞爾《にっこり》して、塩煎餅を買うのに、昼夜帯を抽《ぬ》いたのが、安ものらしい、が、萌黄《もえぎ》の金入《かねいれ》。
「食べながら歩行《あるき》ましょう。」
「弱虫だね。」
大通《おおどおり》へ抜ける暗がりで、甘く、且つ香《かんば》しく、皓歯《しらは》でこなしたのを、口移し……
九
宗吉が夜学から、徒士町《おかちまち》のとある裏の、空瓶屋と襤褸屋《ぼろや》の間の、貧しい下宿屋へ帰ると、引傾《ひきかし》いだ濡縁《ぬれえん》づきの六畳から、男が一人|摺違《すれちが》いに出て行《ゆ》くと、お千さんはパッと障子を開けた。が、もう床が取ってある……
枕元の火鉢に、はかり炭を継いで、目の破れた金網を斜《はす》に載せて、お千さんが懐紙《ふところがみ》であおぎながら、豌豆餅《えんどうもち》を焼いてくれた。
そして熱いのを口で吹いて、嬉しそうな宗吉に、浦里の話をした。
お千は、それよりも美しく、雪はなけれど、ちらちらと散る花の、小庭の湿地《しけち》の、石炭殻につもる可哀《あわれ》さ、痛々しさ。
時次郎でない、頬被《ほおかぶり》したのが、黒塀の外からヌッと覗く。
お千が脛白《はぎしろ》く、はっと立って、障子をしめようとする目の前へ、トンと下りると、つかつかと縁側へ。
「あれ。」
「おい、気の毒だがちょっと用事だ。」
と袖から蛇の首のように捕縄《とりなわ》をのぞかせた。
膝をなえたように支《つ》きながら、お千は宗吉を背後《うしろ》に囲って、
「……この人は……」
「いや、小僧に用はない。すぐおいで。」
「宗ちゃん、……朝の御飯はね、煮豆が買って蓋《ふた》ものに、……紅生薑《べにしょうが》と……紙の蔽《おおい》がしてありますよ。」
風俗係は草履を片手に、もう入口の襖《ふすま》を開けていた。
お千が穿《はき》ものをさがすうちに、風俗係は、内から、戸の錠をあけたが、軒を出ると、ひたりと腰縄を打った。
細腰はふっと消えて、すぼめた肩が、くらがりの柳に浮く。
……そのお千には、もう疾《とう》に、羽織もなく、下着もなく、膚《はだえ》ただ白く縞《しま》の小袖の萎《な》えたるのみ。
宗吉は、跣足《はだし》で、めそめそ泣きながら後を追った。
目も心も真暗《まっくら》で、町も処も覚えない。颯《さっ》と一条の冷い風が、電燈の細い光に桜を誘った時である。
「旦那。」
とお千が立停《たちど》まって、
「宗ちゃん――宗ちゃん。」
振向きもしないで、うなだれたのが、気を感じて、眉を優しく振向いた。
「…………」
「姉さんが、魂をあげます。」――辿《たど》りながら折ったのである。……懐紙の、白い折鶴が掌《て》にあった。
「この飛ぶ処へ、すぐおいで。」
ほっと吹く息、薄紅《うすくれない》に、折鶴はかえって蒼白《あおじろ》く、花片《はなびら》にふっと乗って、ひらひらと空を舞って行く。……これが落ちた大《おおき》な門で、はたして宗吉は拾われたのであった。
電車が上り下りともほとんど同時に来た。
宗吉は身動きもしなかった。
と見ると、丸髷《まるまげ》の女が、その緋縮緬《ひぢりめん》の傍《そば》へ衝《つ》と寄って、いつか、肩ぬげつつ裏の辷《すべ》った効性《かいしょう》のない羽織を、上から引合せてやりながら、
「さあ、来ました。」
「自動車ですか。」
と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったまま、緋縮緬の女はきょろんとしていた。
十
年若《としわか》い駅員が、
「貴方がたは?」
と言った。
乗り余った黒山の群集も、三四輛立続けに来た電車が、泥まで綺麗に浚《さら》ったのに、まだ待合所を出なかった女二人、(別に一人)と宗吉をいぶかったのである。
宗吉は言った。
「この御婦人が御病気なんです。」
と、やっぱり、けろりと仰向《あおむ》いている緋縮緬の女を、外套《がいとう》の肘《ひじ》で庇《かば》って言った。
駅員の去ったあとで、
「唯今《ただいま》、自動車を差上げますよ。」
と宗吉は、優しく顔を覗《のぞ》きつつ、丸髷の女に瞳を返して、
「巣鴨はお見合せを願えませんか。……きっと御介抱申します。私《わたくし》はこういうものです。」
なふだに医学博士――秦宗吉とあるのを見た時、……もう一人居た、散切《ざんぎり》で被布の女が、P形に直立して、Zのごとく敬礼した。これは附添の雑仕婦《ぞうしふ》であったが、――博士が、その従弟の細君に似たのをよすがに、これより前《さき》、丸髷の女に言《ことば》を掛けて、その人品のゆえに人をして疑わしめず、連《つれ》は品川の某楼の女郎で、気の狂ったため巣鴨の病院に送るのだが、自動車で行きたい、それでなければ厭《いや》だと言う。そのつもりにして、すかして電車で来ると、ここで自動車でないからと言って、何でも下りて、すねたのだと言う。……丸髷は某楼のその娘分。女郎の本名をお千と聞くまで、――この雑仕婦は物頂面《ぶっちょうづら》して睨《にら》んでいた。
不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、徐《おもむ》ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、
「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」
やがて博士は、特等室にただ一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手に剃刀《かみそり》を持たせながら、臥床《ベッド》に跪《ひざまず》いて、その胸に額を埋めて、ひしと縋《すが》って、潸然《さんぜん》として泣きながら、微笑《ほほえ》みながら、身も世も忘れて愚に返ったように、だらしなく、涙を髯《ひげ》に伝わらせていた。
[#地から1字上げ]大正九(一九二○)年五月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十巻」岩波書店
1941(昭和16)年5月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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