ったのが、可懐《なつかし》い亡き母の乳房の輪線の面影した。
「まあ、これからという、……女にしても蕾《つぼみ》のいま、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……ええ、それが私に恥かしくって、――」
 その乳《ち》の震《ふるえ》が胸に響く。
「何の塩煎餅の二枚ぐらい、貴方が掏賊《ちぼ》でも構やしない――私はね、あの。……まあ、とにかく、内へ行《ゆ》きましょう。可《い》い塩梅《あんばい》に誰も居ないから。」
 促して、急いで脱放しの駒下駄を捜《さぐ》る時、白脛《しらはぎ》に緋《ひ》が散った。お千も慌《あわただ》しかったと見えて、宗吉の穿物《はきもの》までは心着かず、可恐《おそろ》しい処を遁《に》げるばかりに、息せいて手を引いたのである。
 魔を除《よ》け、死神を払う禁厭《まじない》であろう、明神の御手洗《みたらし》の水を掬《すく》って、雫《しずく》ばかり宗吉の頭髪《かみ》を濡らしたが、
「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」
 と、手よりも濡れた瞳を閉じて、頸《えり》白く、御堂《みどう》をば伏拝み、
「一口めしあがれ、……気を静めて――私も。」
 と柄杓《ひしゃく》
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