「さあ、貴女《あなた》。」
 と、甘谷が座蒲団を引攫《ひっさら》って、もとの処へ。……身体《からだ》に似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着《よぎ》で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に外出《そとで》がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。
 対《つい》の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、
「さ、さ、貴女。」
 と自分は退《の》いて、
「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居《たちい》が石臼《いしうす》を引摺《ひきず》るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気《かっけ》がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。
「可厭《いや》ですことねえ。」
 と、婀娜な目で、襖際《ふすまぎわ》から覗《のぞ》くように、友染の裾《すそ》を曳《ひ》いた櫛巻の立姿。

       五

 桜にはちと早い、木瓜《ぼけ》か、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南《ひなた》の薫《かおり》が添って、お千が
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