するすると寄る衣摺《きぬずれ》が、遠くから羽衣の音の近《ちかづ》くように宗吉の胸に響いた……畳の波に人魚の半身。
「どんな母《おっか》さんでしょう、このお方。」
 雪を欺く腕《かいな》を空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにして熟《じっ》と視《み》た。
「羨《うらやま》しい事、まあ、何て、いい眉毛《まみえ》だろう。親御はさぞ、お可愛いだろうねえ。」
 乳も白々と、優しさと可懐《なつか》しさが透通るように視《み》えながら、衣《きぬ》の綾《あや》も衣紋《えもん》の色も、黒髪も、宗吉の目の真暗《まっくら》になった時、肩に袖をば掛けられて、面《おもて》を襟に伏せながら、忍び兼ねた胸を絞って、思わず、ほろほろと熱い涙。
 お妾が次の室《ま》から、
「切れますか剃刀は……あわせに遣《や》ろう遣ろうと思いましちゃあ……ついね……」

 自殺をするのに、宗吉は、床屋に持って行《ゆ》きましょう、と言って、この剃刀を取って出た。それは同じ日の夜《よ》に入《い》ってからである。
 仔細《しさい》は……

       六

 ……さて、やがて朝湯から三人が戻って来ると、長いこと便所に居た熊沢も一座で、また花札を弄《もてあそ》ぶ事になって、朝飯は鮨《すし》にして、湯豆腐でちょっと一杯、と言う。
 この使《つかい》のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立《きったて》の段を下りた宮本町の横小路に、相馬《そうま》煎餅《せんべい》――塩煎餅の、焼方の、醤油《したじ》の斑《ふ》に、何となく轡《くつわ》の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉がこれを買いに遣られたのが事の原因《おこり》であった。
 何分にも、十六七の食盛《くいざか》りが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるように嶮《けわ》しい石段を下りたドン底の空腹《ひもじ》さ。……天麩羅《てんぷら》とも、蕎麦《そば》とも、焼芋とも、芬《ぷん》と塩煎餅の香《こうば》しさがコンガリと鼻を突いて、袋を持った手がガチガチと震う。近飢《ちかがつ》えに、冷い汗が垂々《たらたら》と身うちに流れる堪え難さ。
 その時分の物価で、……忘れもしない七銭が煎餅の可なり嵩《かさ》のある中から……小判のごとく、数二枚。
 宗吉は、一坂《ひとさか
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