気も弛《ゆる》み、心も挫《くじ》けて、一斉《いっとき》にがつくりと疲労《つかれ》が出た。初陣《ういじん》の此の若武者《わかむしゃ》、霧に打たれ、雨に悩み、妖婆《ようば》のために取つて伏せられ、忍《しのび》の緒《お》をプツツリ切つて、
「最《も》う何《ど》うでも可《よ》うございます、私はふら/\して堪《たま》らない、殺されても可《い》いから少時《しばらく》爰《ここ》で横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。」
「おう/\可《い》いともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも憂慮《きづかい》をさつしやることはないに、私《わし》が山猫の化けたのでも。」
「え。」
「はて魔の者にした処《ところ》が、鬼神《きじん》に横道《おうどう》はないといふ、さあ/\かたげて寝《やす》まつしやれいの/\。」
 桂木はいふがまゝに、兎《と》も角《かく》も横になつた、引寄せもせず、ポネヒル銃のある処《ところ》へ転げざまに、倒れて寝ようとすると、
「や、しばらく待たつしやれ。」

        八

「お前様一枚脱いでなり、濡《ぬ》れたあとで寒うござろ。」
「震へるやうです、全く。」
「掛けるものを貸して進ぜましよ、矢張《やっぱり》内端《うちわ》ぢや、お前様立つて取らつしやれ、何《なに》なう、私《わし》がなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、一寸《ちょっと》でも此の糸を切るが最後、お前様の身が危《あぶな》いで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。又《ま》た不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間の習《ならい》ぢや。よりもかゝらず、蜘蛛《くも》の糸より弱うても、私《わし》が居るから可《よ》いわいの、さあ/\立つて取らつしやれ、被《か》けるものはの、他《ほか》にない、あつても気味が悪からうず、少《わか》い人には丁度《ちょうど》持つて来い、枯野《かれの》に似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。
 あゝ、いや、其の蓑《みの》ではないぞの、屏風《びょうぶ》を退《の》けて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。」と糸車の前をずりもせず、顔ばかり振向《ふりむ》く方《かた》。
 桂木は、古びた雨漏《あまもり》だらけの壁に向つて、衝《つ》と立つた、唯《と》見れば一領《いちりょう》、古蓑《ふるみの》が描ける墨絵《すみえ》の滝の如く、梁《うつばり》に掛《かか》つて居たが、見てはじめ、人の身体《からだ》に着るのではなく、雨露《あめつゆ》を凌《しの》ぐため、破家《あばらや》に絡《まと》うて置くのかと思つた。
 蜂《はち》の巣のやう穴だらけで、炉の煙は幾条《いくすじ》にもなつて此処《ここ》からも潜《もぐ》つて壁の外へ染《にじ》み出す、破屏風《やれびょうぶ》を取《とり》のけて、さら/\と手に触れると、蓑はすつぽりと梁《はり》を放《はな》れる。
 下に、絶壁の磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《こうかく》たる如く、壁に雨漏の線が入つた処《ところ》に、すらりとかゝつた、目覚《めざめ》るばかり色好《いろよ》き衣《きぬ》、恁《かか》る住居《すまい》に似合ない余りの思ひがけなさに、媼《おうな》の通力《つうりき》、枯野《かれの》忽《たちま》ち深山《みやま》に変じて、こゝに蓑の滝、壁の巌《いわお》、もみぢの錦《にしき》かと思つたので。
 桂木は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、
「お媼《ばあ》さん。」
「おゝ、其ぢや、何と丁《ちょう》どよからうがの、取つて掻巻《かいまき》にさつしやれいなう。」
 裳《もすそ》は畳《たたみ》につくばかり、細く褄《つま》を引合《ひきあわ》せた、両袖《りょうそで》をだらりと、固《もと》より空蝉《うつせみ》の殻なれば、咽喉《のど》もなく肩もない、襟《えり》を掛けて裏返しに下げてある、衣紋《えもん》は梁《うつばり》の上に日の通さぬ、薄暗い中《うち》に振仰《ふりあお》いで見るばかりの、丈《たけ》長《なが》き女の衣《きぬ》、低い天井から桂木の背《せな》を覗《のぞ》いて、薄煙《うすけむり》の立迷《たちまよ》ふ中に、一本《ひともと》の女郎花《おみなえし》、枯野《かれの》に彳《たたず》んで淋《さみ》しさう、然《しか》も何《なん》となく活々《いきいき》して、扱帯《しごき》一筋《ひとすじ》纏《まと》うたら、裾《すそ》も捌《さば》かず、手足もなく、俤《おもかげ》のみがすら/\と、炉の縁《ふち》を伝ふであらう、と桂木は思はず退《すさ》つた。
「大事ない/\、袷《あわせ》ぢやけれどの、濡《ぬ》れた上衣《うわぎ》よりは増《まし》でござろわいの、主《ぬし》も分つてある、麗《あでやか》な娘のぢやで、お前様に殆《ちょう》ど可《よ》いわ、其主《そのぬし》もまたの、お前様のやうな、少《わか》い綺麗《きれい》な人と寝たら本望《ほんもう》ぢやろ、はゝはゝはゝ。」
 腹蔵《ふくぞう》なく大笑《おおわらい》をするので、桂木は気を取直《とりなお》して、密《そっ》と先《ま》づ其の袂《たもと》の端に手を触れた。
 途端に指の尖《さき》を氷のやうな針で鋭く刺さうと、天窓《あたま》から冷《ひや》りとしたが、小袖《こそで》はしつとりと手にこたへた、取り外《はず》し、小脇に抱く、裏が上になり、膝《ひざ》のあたり和《やわら》かに、褄《つま》しとやかに袷の裾なよ/\と畳に敷いて、襟は仰向《あおむ》けに、譬《たとえ》ば胸を反《そ》らすやうにして、桂木の腕にかゝつたのである。
 さて見れば、鼠縮緬《ねずみちりめん》の裾廻《すそまわし》、二枚袷《にまいあわせ》の下着と覚《おぼ》しく、薄兼房《うすけんぼう》よろけ縞《じま》のお召縮緬《めしちりめん》、胴抜《どうぬき》は絞つたやうな緋の竜巻、霜《しも》に夕日の色|染《そ》めたる、胴裏《どううら》の紅《くれない》冷《つめた》く飜《かえ》つて、引けば切れさうに振《ふり》が開《あ》いて、媼《おうな》が若き時の名残《なごり》とは見えず、当世の色あざやかに、今脱いだかと媚《なまめ》かしい。
 熟《じっ》と見るうちに我にもあらず、懐しく、床《ゆか》しく、いとしらしく、殊《こと》にあはれさが身に染《し》みて、まゝよ、ころりと寝て襟のあたりまで、銃を枕に引《ひっ》かぶる気になつた、ものの情《なさけ》を知るものの、恁《か》くて妖魔の術中に陥《おちい》らうとは、いつとはなしに思ひ思はず。

        九

「はゝはゝ、見れば見るほど良い孫ぢやわいなう、何《ど》うぢや、少しは落着《おちつ》かしやつたか、安堵《あんど》して休まつしやれ。したがの、長いことはならぬぞや、疲労《くたびれ》が治つたら、早く帰らつしやれ。
 お前さま先刻《さき》のほど、血相《けっそう》をかへて謂《い》はしつた、何か珍しいことでもあらうかと、生命《いのち》がけでござつたとの。良いにつけ、悪いにつけ、此処等《ここら》人の来《こ》ぬ土地《ところ》へ、珍しいお客様ぢや。
 私《わし》がの、然《そ》うやつてござるあひだ、お伽《とぎ》に土産話《みやげばなし》を聞かせましよ。」
 と下にも置かず両の手で、静《しずか》に糸を繰《く》りながら、
「他《ほか》の事ではないがの、今かけてござる其の下着ぢや。」
 桂木は何時《いつ》かうつら/\して居たが、ぱつちりと涼《すずし》い目を開《あ》けた。
「其は恁《こ》うぢやよ、一月《ひとつき》の余《よ》も前ぢやわいの、何ともつひぞ見たことのない、都《みやこ》風俗《ふうぞく》の、少《わか》い美しい嬢様が、唯《たっ》た一人《ひとり》景色を見い/\、此の野へござつて私《わし》が処《とこ》へ休ましやつたが、此の奥にの、何《なに》とも名の知れぬ古い社《やしろ》がござるわいの、其処《そこ》へお参詣《まいり》に行くといはつしやる。
 はて此の野は其のお宮の主《ぬし》の持物で、何をさつしやるも其の御心《みこころ》ぢや、聞かつしやれ。
 どんな願事《ねがいごと》でもかなふけれど、其かはり生命《いのち》を犠《にえ》にせねばならぬ掟《おきて》ぢやわいなう、何と又《また》世の中に、生命《いのち》が要《い》らぬといふ願《ねがい》があろか、措《お》かつしやれ、お嬢様、御存じないか、というたれば。
 いえ/\大事ござんせぬ、其を承知で参りました、といはつしやるわいの。
 いや最《も》う、何《なに》も彼《か》も御存じで、婆《ばば》なぞが兎《と》や角《こ》ういふも恐多《おそれおお》いやうな御人品《ごじんぴん》ぢや、さやうならば行つてござらつせえまし。お出かけなさる時に、歩行《ある》いたせゐか暑うてならぬ、これを脱いで行きますと、其処《そこ》で帯を解《と》かつしやつて、お脱ぎなされた。支度を直して、長襦袢《ながじゅばん》の上へ袷《あわせ》一《ひと》ツ、身軽になつて、すら/\草の中を行かつしやる、艶々《つやつや》としたおつむりが、薄《すすき》の中へ隠れたまで送つてなう。
 それからは茅萱《ちがや》の音にも、最《も》うお帰《かえり》かと、待てど暮らせど、大方|例《いつも》のにへにならつしやつたのでござらうわいなう。私《わし》がやうな年寄《としより》にかけかまひはなけれどもの、何《なん》につけても思ひ詰めた、若い人たちの入つて来る処《ところ》ではないほどに、お前様も二度と来ようとは思はつしやるな。可《い》いかの、可《い》いかの。」と間《あい》を措《お》いて、緩《ゆる》く引張つてくゝめるが如くにいふ、媼《おうな》の言《ことば》が断々《たえだえ》に幽《かすか》に聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は留南木《とめぎ》の薫《かおり》に又|恍惚《うっとり》。
 優しい暖かさが、身に染《し》みて、心から、草臥《くたび》れた肌を包むやうな、掻巻《かいまき》の情《なさけ》に半《なか》ば眼《まなこ》を閉ぢた。
 驚破《すわ》といへば、射《い》て落《おと》さんず心も失《う》せ、はじめの一念《いちねん》も疾《と》く忘れて、野《の》にありといふ古社《ふるやしろ》、其の怪《あやしみ》を聞かうともせず、目《ま》のあたりに車を廻すあからさまな媼《おうな》の形も、其のまゝ舁《か》き移すやうに席《むしろ》を彼方《あなた》へ、小さく遠くなつたやうな思ひがして、其の娘も犠《にえ》の仔細も、媼の素性《すじょう》も、野の状《さま》も、我が身のことさへ、夢を見たら夢に一切知れようと、ねむさに投げ出した心の裡《うち》。
 却《かえ》つて爰《ここ》に人あるが如く、横に寝た肩に袖《そで》がかゝつて、胸にひつたりとついた胴抜《どうぬき》の、媚《なまめ》かしい下着の襟《えり》を、口を結んで熟《じっ》と見て、噫《ああ》、我が恋人は他《た》に嫁《か》して、今は世に亡《な》き人となりぬ。
 我も生命《いのち》も惜《おし》まねばこそ、恁《かか》る野にも来《きた》りしなれ、何《ど》うなりとも成るやうになつて止《や》め! 之《これ》も犠《にえ》になつたといふ、あはれな記念《かたみ》の衣《ころも》哉《かな》、としきりに果敢《はかな》さに胸がせまつて、思はず涙ぐむ襟許《えりもと》へ、颯《さっ》と冷《つめた》い風。
 枯野《かれの》の冷《ひえ》が一幅《ひとはば》に細く肩の隙《すき》へ入つたので、しつかと引寄せた下着の背《せな》、綿《わた》もないのに暖《あたたか》く二《に》の腕《うで》へ触れたと思ふと、足を包んだ裳《もすそ》が揺れて、絵の婦人《おんな》の、片膝《かたひざ》立てたやうな皺《しわ》が、袷《あわせ》の縞《しま》なりに出来て、しなやかに美しくなつた。
 ※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と見ると、女の俤《おもかげ》。

        十

 眉《まゆ》長く、瞳《ひとみ》黒く、色雪の如きに、黒髪の鬢《びん》乱れ、前髪の根も分《わか》るゝばかり鼻筋《はなすじ》の通つたのが、寝ながら桂木の顔を仰ぐ、白歯《しらは》も見えた涙の顔に、得《え》も謂《い》はれぬ笑《えみ》を含んで、ハツとする胸に、媼《おうな》が糸を繰《く》る音とともに幽《かすか》に響いて、
「主《ぬし》のあるものですが、一所《いっしょ》に死んで下さいませんか。」と声
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