み》の引《ひっ》かけ帯《おび》で、ふつくりした美《い》い女が、糸車を廻して居たが、燭台につけた蝋燭《ろうそく》の灯影《ほかげ》に、横顔で、旅商人《たびあきうど》、私の其の縁続きの美男を見向《みむ》いて、
(主《ぬし》のあるものですが、一所《いっしょ》に死んで下さいませんか。)――と唯《ただ》一言《ひとこと》いつたのださうだ。
いや、最《も》う六十になるが忘れないとさ、此の人は又|然《そ》ういふよ、其れから此方《こっち》、都にも鄙《ひな》にも、其れだけの美女を見ないツて。
さあ、其の糸車のまはる音を聞くと、白い柔かな手を動かすまで目に見えるやうで、其のまゝ気の遠くなる、其が、やがて死ぬ心持《こころもち》に違ひがなければ、鬼でも構はないと思つたけれども、何《ど》うも未《ま》だ浮世《うきよ》に未練があつたから、這《は》ふやうにして、跫音《あしおと》を盗んで出て、脚絆《きゃはん》を附けて草鞋《わらじ》を穿《は》くまで、誰も遮《さえぎ》る者はなかつたさうだけれど、それが又、敵の囲《かこい》を蹴散《けち》らして遁《に》げるより、工合《ぐあい》が悪い。
帰らるゝなら帰つて見ろと、女どもが云つた呪詛《まじない》のやうな言《ことば》も凄《すご》し、一足《ひとあし》棟《むね》を離れるが最後、岸破《がば》と野が落ちて地《じ》の底へ沈まうも知れずと、爪立足《つまだてあし》で、びく/\しながら、それから一生懸命に、野路《のみち》にかゝつて遁《に》げ出した、伊豆の伊東へ出る間道《かんどう》で、此処《ここ》を放れたまで何の障《さわ》りもなかつたさうで。
たゞ、些《ち》と時節が早かつたと見えて、三島の山々から一《ひと》なだれの茅萱《ちがや》が丈《たけ》より高い中から、ごそごそと彼処此処《あっちこっち》、野馬《のうま》が顔を出して人珍しげに瞶《みつ》めては、何処《どこ》へか隠れて了《しま》ふのと、蒼空《あおぞら》だつたが、ちぎれ/\に雲の脚《あし》の疾《はや》いのが、何《ど》んな変事でも起らうかと思はれて、活《い》きた心地はなかつたと言ふ話ぢやないか。
それだもの、お媼《ばあ》さん。」
六
「もし、そんなことが、真個《ほんとう》にある処《ところ》なら、生命《いのち》がけだつてねえ、一度来て見ずには居られないとは思ひませんか。
何しに来たつて、お前さんが咎《とが》めるやうに聞くから言ふんだが、何も其の何《ど》うしよう、恁《こ》うしようといふ悪気《わるぎ》はない。
好事《ものずき》さ、好事《ものずき》で、変つた話でもあつたら聞かう、不思議なことでもあるなら見ようと思ふばかり、しかしね、其を見聞《みき》くにつけては、どんな又|対手《あいて》に不心得があつて、危険《けんのん》でないとも限らぬから、其処《そこ》で恁《こ》う、用心の銃をかついで、食べる物も用意した。
台場《だいば》の停車場《ステエション》から半道《はんみち》ばかり、今朝《けさ》此《この》原へかゝつた時は、脚絆《きゃはん》の紐《ひも》も緊乎《しっかり》と、草鞋《わらじ》もさツ/\と新しい踏心地《ふみごこち》、一面に霧のかゝつたのも、味方の狼煙《のろし》のやうに勇《いさま》しく踏込《ふみこ》むと、さあ、一《ひと》ツ一《ひと》ツ、萱《かや》にも尾花にも心を置いて、葉末《はずえ》に目をつけ、根を窺《うかが》ひ、まるで、美しい蕈《きのこ》でも捜す形。
葉ずれの音がざわ/\と、風が吹く度《たび》に、遠くの方で、
(主《ぬし》あるものですが、)とでも囁《ささや》いて居るやうで、頼母《たのも》しいにつけても、髑髏《しゃれこうべ》の形をした石塊《いしころ》でもないか、今にも馬の顔《つら》が出はしないかと、宝の蔓《つる》でも手繰《たぐ》る気で、茅萱《ちがや》の中の細路《ほそみち》を、胸騒《むなさわぎ》がしながら歩行《ある》いたけれども、不思議なものは樹《き》の根にも出会《でっくわ》さない、唯《ただ》、彼《あ》のこはれ/″\の停車場《ステエション》のあとへ来た時、雨露《あめつゆ》に曝《さら》された十字の里程標《りていひょう》が、枯草《かれくさ》の中に、横になつて居るのを見て、何となく荒野《あれの》の中の磔柱《はりつけばしら》ででもあるやうに思つた。
おゝ、然《そ》ういへば沢山《たんと》古い昔ではない、此の国の歴々《れきれき》が、此処《ここ》に鷹狩《たかがり》をして帰りがけ、秋草《あきぐさ》の中に立つて居た媚《なまめ》かしい婦人《おんな》の、あまりの美しさに、予《かね》ての色好《いろごの》み、うつかり見惚《みと》れるはずみに鞍《くら》を外《はず》して落馬した、打処《うちどころ》が病《やまい》のもとで、あの婦人《おんな》ともを為《さ》せろ、と言《い》ひ死《じに》に亡くなられた。
あとでは魔法づかひだ、主殺《しゅころ》しと、可哀相に、此の原で磔《はりつけ》にしたとかいふ。
日本一《にっぽんいち》の無法な奴等《やつら》、かた/″\殿様のお伽《とぎ》なればと言つて、綾錦《あやにしき》の粧《よそおい》をさせ、白足袋《しろたび》まで穿《は》かせた上、犠牲《いけにえ》に上げたとやら。
南無三宝《なむさんぼう》、此の柱へ血が垂れるのが序開《じょびら》きかと、其《その》十字の里程標の白骨《はっこつ》のやうなのを見て居る中《うち》に、凭《よっ》かゝつて居た停車場《ステエション》の朽《く》ちた柱が、風もないに、身体《からだ》の圧《おし》で動くから、鉄砲を取直《とりなお》しながら後退《あとじさ》りに其処《そこ》を出た。
雨は其の時から降り出して、それからの難儀さ。小糠雨《こぬかあめ》の細《こまか》いのが、衣服《きもの》の上から毛穴を徹《とお》して、骨に染《し》むやうで、天窓《あたま》は重くなる、草鞋《わらじ》は切れる、疲労《つかれ》は出る、雫《しずく》は垂《た》る、あゝ、新しい筵《むしろ》があつたら、棺《かん》の中へでも寝たいと思つた、其で此の家を見つけたんだもの、何の考へもなしに駈《か》け込んだが、一呼吸《ひといき》して見ると、何《ど》うだらう。」
炉の火はパツと炎尖《ほさき》を立てて、赤く媼《おうな》の額《ひたい》を射《い》た、瞻《みまも》らるゝは白髪《しらが》である、其皺《そのしわ》である、目鼻立《めはなだち》である、手の動くのである、糸車の廻るのである。
恁《か》くても依然として胸を折つて、唯《ただ》糸に操《あやつ》らるゝ如き、媼の状《さま》を見るにつけても、桂木は膝《ひざ》を立てて屹《きっ》となつた。
「失礼だが、お媼《ばあ》さん、場所は場所だし、末枯《うらがれ》だし、雨は降る、普通《ただ》ものとは思へないぢやないか。霧が雲がと押問答《おしもんどう》、謎《なぞ》のかけツこ見たやうなことをして居るのは、最《も》う焦《じ》れつたくつて我慢が出来ぬ。そんなまだるつこい、気の滅入《めい》る、糸車なんざ横倒しにして、面白いことを聞かしておくれ。
それとも人が来たのが煩《うるさ》くツて、癪《しゃく》に障《さわ》つたら、さあ、手取り早く何《ど》うにかするんだ、牙《きば》にかけるなり、炎を吐《は》くなり、然《そ》うすりや叶《かな》はないまでも抵抗《てむかい》しよう、善にも悪にも恁《こ》うして居ちや、じり/\して胸が苦しい、じみ/\雨で弱らせるのは、第一|何《なに》にしろ卑怯の到《いた》りだ、さあ、さあ、人間でさいなくなりや、其を合図で勝負にしよう、」と微笑を泛《うか》べて串戯《じょうだん》らしく、身悶《みもだえ》をして迫りながら、桂木の瞳《ひとみ》は据《すわ》つた。
血気《けっき》に逸《はや》る少年の、其の無邪気さを愛する如く、離れては居るが顔と顔、媼は嘗《な》めるやうにして、しよぼ/\と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き、
「お客様もう降つて居《い》はせぬがなう。」
桂木|一驚《いっきょう》を喫《きっ》して、
「や何時《いつ》の間《ま》に、」
七
「炉の中の荊《いばら》の葉が、かち/\と鳴つて燃えると、雨は上るわいなう。」
いかにも拭《ぬぐ》つたやうに野面《のづら》一面。媼《おうな》の頭《つむり》は白さを増したが、桂木の膝《ひざ》のあたりに薄日《うすび》が射《さ》した、但《ただ》件《くだん》の停車場《ステエション》に磁石を向けると、一直線の北に当る、日金山《ひがねやま》、鶴巻山《つるまきやま》、十国峠《じっこくとうげ》を頂いた、三島の連山の裾《すそ》が直《ただち》に枯草《かれくさ》に交《まじわ》るあたり、一帯の霧が細流《せせらぎ》のやうに靉靆《たなび》いて、空も野も幻の中に、一際《ひときわ》濃《こま》やかに残るのである。
あはれ座右《ざう》のポネヒル一度《ひとたび》声を発するを、彼処《かしこ》に人ありて遙《はるか》に見よ、此処《ここ》に恰《あたか》も其の霧の如く、怪しき煙が立たうもの、
と、桂木は心も勇《いさ》んで、
「むゝ、雨は歇《や》んだ、けれどもお媼《ばあ》さんの姿は未《ま》だ矢張《やっぱり》人間だよ。」と物狂《ものくる》はしく固唾《かたず》を飲んだ。
此の時媼、呵々《からから》と達者《たっしゃ》に笑ひ、
「はゝはゝ、お客様も余程のお方ぢやなう、しつかりさつしやれ、気分が悪いのでござろ。なるほど石ころ一つ、草の葉にまで、心を置いたと謂《い》はつしやるにつけ、何《ど》うかしてござらうに、まづまづ、横にでもなつて気を落着けるが可《よ》いわいなう、それぢやが、私《わし》を早《は》や矢張《やっぱり》怪しいものぢやと思うてござつては、何とも安堵《あんど》出来|悪《にく》かろ、可《よ》いわいの。
もつともぢや、お主《ぬし》さへ命がけで入つてござつたといふ処《ところ》、私《わし》がやうな起居《たちい》も不自由な老寄《としより》が一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、姨捨山《おばすてやま》というて、年寄《としより》を棄《す》てた名所さへある世の中ぢや、私《わたし》が世を棄《すて》て一人住んで居《お》つたというて、何で怪しう思はしやる。少《わか》い世捨人《よすてびと》な、これ、坊さまも沢山《たんと》あるではないかいの、まだ/\、死んだ者に信女《しんにょ》や、大姉《だいし》居士《こじ》なぞいうて、名をつける習《ならい》でござらうが、何で又、其の旅商人《たびあきうど》に婦人《おんな》が懸想《けそう》したことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!」と胸を伸《のば》して、皺《しわ》だらけの大《おおき》な手を、薄いよれ/\の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、左手《ゆんで》は尚《なお》細長い綿《わた》から糸を吐《は》かせたまゝ、乳《ちち》のあたりに捧げて居た。
「第一まあ、先刻《さっき》から恁《こ》うやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を繰《く》る手を下にも置かない、茶を一つ汲《く》んで呉《く》れず、焚火《たきび》だつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お媼《ばあ》さん。」
「これは/\、お前様は、何と、働きもの、愛想《あいそ》のないものを、変化《へんげ》ぢやと思はつしやるか。」
「むゝ。」
「それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可愛《かわい》らしいお方ぢやでの、私《わし》も内端《うちわ》のもてなしぢや、茶も汲《く》んで飲《あが》らうぞ、火も焚《た》いて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう」
「…………」桂木は返す言《ことば》は出なかつたが、恁《こ》う謂《い》はるれば謂はれるほど、却《かえ》つて怪しさが増すのであつたが。
爰《ここ》にいたりて自然の勢《いきおい》、最早|与《く》みし易《やす》からぬやうに覚《おぼ》ゆると同時に、肩も竦《すく》み、膝《ひざ》もしまるばかり、烈《はげ》しく恐怖の念が起つて、単《ひとえ》に頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかと怯《おく》れが生じて、迚《とて》も敵《てき》し難《がた》しと、断念をするとともに、張詰《はりつ》めた
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