かに打頷《うちうなず》き、
「それならば待たしやませ、塩《しょ》ツぱいが味噌漬《みそづけ》の香《こう》の物がござるわいなう。」
「待ちたまへ、味噌漬なら敢《あえ》てお手数《てすう》に及ぶまいと思ひます。」
 と手早《てばや》く笹《ささ》の葉を解《ほど》くと、硬《こわ》いのがしやつちこばる、包《つつみ》の端を圧《おさ》へて、草臥《くたび》れた両手をつき、畏《かしこま》つて熟《じっ》と見て、
「それ、言はないこツちやない、果して此の菜《さい》も味噌漬だ。お媼《ばあ》さん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅干《うめぼし》を持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、然《そ》うなのかね、」と顔を上げて又|瞻《みまも》つたが、恁《かか》る相好《そうごう》の媼《おうな》を見たのは、場末の寄席《よせ》の寂《せき》として客が唯《ただ》二三の時、片隅《かたすみ》に猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、薪《たきぎ》を背負《しょ》つて歩行《ある》いて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。
 媼は皺《しわ》だらけの面《つら》の皺も動かさず、
「何《ど》うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一層《いっそ》のこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」
「然《そ》う、」とばかり見詰《みつ》めて居た。
 此時《このとき》気《け》だるさうにはじめて振向《ふりむ》き、
「あのまた霧の毒といふものは恐《おそろ》しいものでなう、お前様、今日は彼《あれ》が雨になつたればこそ可《よ》うござつた、ものの半日も冥土《よみじ》のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命《いのち》を取られいでから三月《みつき》四月《よつき》煩《わずら》うげな、此処《ここ》の霧は又|格別《かくべつ》ぢやと言ふわいなう。」
「あの、霧が、」
「お客様、お前さま、はじめて此処《ここ》を歩行《ある》かつしやるや?」
 桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑込《のみこ》み、
「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」
「然《そ》うぢやろ、然うぢやろ。」と媼《おうな》はまた頷《うなず》いたが、単《ただ》然《そ》うであらうではなく、正《まさ》に然《そ》うなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。
「而《そ》して何かの、お前様|其《そ》の鉄砲を打つて歩行《ある》かしやるでござるかの。」と糸を繰《く》る手を両方に開《ひら》いてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木は箸《はし》を置き、心で身構《みがまえ》をして、
「これかね。」と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、小雨《こさめ》の色、孤家《ひとつや》の裡《うち》も、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、凡《すべ》て枯野《かれの》に描かれた、幻の如き間《あいだ》に、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青く閃《きらめ》くまで磨ける鏡かと壁を射《い》て、弾込《たまごめ》したのがづツしり手応《てごたえ》。
 我ながら頼母《たのも》しく、
「何、まあね、何《ど》うぞこれを打つことのないやうにと、内々《ないない》祈つて居るんだよ。」
「其はまた何といふわけでござらうの。」と澄《すま》して、例の糸を繰《く》る、五体は悉皆《しっかい》、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は少頃《しばらく》も手を休めず。
 驚破《すわ》といふ時、綿《わた》の条《すじ》を射切《いき》つたら、胸に不及《およばず》、咽喉《のんど》に不及《およばず》、玉《たま》の緒《お》は絶《た》えて媼は唯《ただ》一個《いっこ》、朽木《くちき》の像にならうも知れぬ。
 と桂木は心の裡《うち》。

        四

 構はず兵糧《ひょうろう》を使ひつゝ、
「だつてお媼《ばあ》さん、此の野原は滅多《めった》に人の通らない処《ところ》だつて聞いたからさ。」
「そりや最《も》う眺望《ながめ》というても池一つあるぢやござらぬ、纔《わずか》ばかりの違《ちがい》でなう、三島はお富士山《ふじさま》の名所ぢやに、此処《ここ》は恁《こ》う一目千里《ひとめせんり》の原なれど、何が邪魔《じゃま》をするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。」
「否《いいえ》さ、景色がよくないから遊山《ゆさん》に来《こ》ぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野中《のなか》へ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。」
「それはお客様、此処《ここ》といふ限《かぎり》はござるまいがなう、躓《つまず》けば転びもせず、転びやうが悪ければ怪我《けが》もせうず、打処《うちどころ》が悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、然《そ》う又《また》人のいふ処《ところ》へ、お前様は何をしに来さつしやつた。」
 じろりと流盻《しりめ》に見ていつた。
 桂木はぎよつとしたが、
「理窟《りくつ》を聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人に逢《あ》つて、何か変つた話をして貰《もら》はう、見られるものなら見ようと思つて、遙々《はるばる》出向いて来たんだもの。人間の他《ほか》に歩行《ある》くものがあるといふから、扨《さて》こそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつて了《しま》ふし、活《い》かしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、怪我《けが》過失《あやまち》は所を定めないといふし、それぢや些《ちっ》とも張合《はりあい》がありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。」
 膝《ひざ》を進めて、瞳《ひとみ》を据《す》ゑ、
「私はね、お媼《ばあ》さん、風説《うわさ》を知りつゝ恁《こ》うやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けた処《ところ》、君は何だ、様子が宛然《まるで》野の主《ぬし》とでもいふべきぢやないか、何の馬鹿々々《ばかばか》しいと思ふだらうが、好事《ものずき》です、何《ど》うぞ一番《ひとつ》構はず云つて聞かしてくれ給《たま》へな。
 恁《こ》ういふと何かお妖《ばけ》の催促をするやうでをかしいけれど、焦《じ》れツたくツて堪《たま》らない。
 素《もと》より其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、函嶺《はこね》を追はれた狼《おおかみ》だらう、今時《いまどき》詰《つま》らない妖者《ばけもの》が居てなりますか、それとも野伏《のぶせ》り山賊《やまだち》の類《たぐい》ででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、怪我《けが》過失《あやまち》だつたり、心の迷《まよい》ぐらゐなことは実は此方《こっち》から言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、此方《こっち》はお媼《ばあ》さん、お前さんの姿を見てから、却《かえ》つて些《ち》と自分の意見が違つて来て、成程《なるほど》これぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。
 お聞きなさい、私が縁続きの人はね、商人《あきうど》で此の節《せつ》は立派に暮して居るけれど、若いうち一時《ひとしきり》困つたことがあつて、瀬戸《せと》のしけものを背負《しょ》つて、方々国々を売つて歩行《ある》いて、此の野に行暮《ゆきく》れて、其の時|草《くさ》茫々《ぼうぼう》とした中に、五六本|樹立《こだち》のあるのを目当に、一軒家へ辿《たど》り着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に難渋《なんじゅう》の次第を話して、一晩泊めて貰《もら》ふとね、快く宿をしてくれて、何《ど》うして何《ど》うして行暮れた旅商人《たびあきうど》如きを、待遇《もてな》すやうなものではない、銚子《ちょうし》杯《さかずき》が出る始末、少《わか》い女中が二人まで給仕について、寝るにも紅裏《べにうら》の絹布《けんぷ》の夜具《やぐ》、枕頭《まくらもと》で佳《い》い薫《かおり》の香《こう》を焚《た》く。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、恁《こ》ういふ身の上にと、其の時分は思つた、其の通《とお》つたもんだから、夢なら覚めるなと一夜《ひとや》明かした迄は可《よ》かつたさうだが。
 翌日《あくるひ》になると帰さない、其晩《そのばん》女中が云ふには、お奥で館《やかた》が召しますつさ。
 其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其は何《ど》うも何とも気高い美しい婦人《おんな》ださうだ。しかし何分《なにぶん》生胆《いきぎも》を取られるか、薬の中へ錬込《ねりこ》まれさうで、恐《こわ》さが先に立つて、片時も目を瞑《ねむ》るわけには行《ゆ》かなかつた。
 私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。」

        五

 桂木は伸びて手首を蔽《おお》はんとする、襯衣《しゃつ》の袖《そで》を捲《ま》き上げたが、手も白く、戦《たたかい》を挑《いど》むやうではない優《おとな》しやかなものであつた、けれども、世に力あるは、却《かえ》つて恁《かか》る少年の意を決した時であらう。
「さあ、館《やかた》の心に従ふまでは、村へも里へも帰さぬといつたが、別に座敷牢へ入れるでもなし、木戸の扉も葎《むぐら》を分けて、ぎいと開《あ》け、障子も雨戸も開放《かいほう》して、真昼間《まっぴるま》、此の野を抜けて帰らるゝものなら、勝手に帰つて御覧なさいと、然《さ》も軽蔑をしたやうに、あは、あは笑ふと両方の縁《えん》へふたつに別れて、二人の其の侍女《こしもと》が、廊下づたひに引込むと、あとはがらんとして畳数《たたみかず》十五|畳《じょう》も敷けようといふ、広い座敷に唯《たった》一人《ひとり》。」
 折から炉の底にしよんぼりとする、掬《すく》ふやうにして手づから燻《いぶ》した落葉の中に二枚《ふたひら》ばかり荊《いばら》の葉の太《いた》く湿つたのがいぶり出した、胸のあたりへ煙が弱く、いつも勢《いきおい》よくは焚《た》かぬさうで冷《つめた》い灰を、舐《な》めるやうにして、一《ひと》ツ蜒《うね》つて這《は》ひ上《あが》るのを、肩で乱して払ひながら、
「煙《けむ》い。其までは宛然《まるで》恁《こ》う、身体《からだ》へ絡《まつわ》つて、肩を包むやうにして、侍女《こしもと》の手だの、袖だの、裾《すそ》だの、屏風《びょうぶ》だの、襖《ふすま》だの、蒲団《ふとん》だの、膳《ぜん》だの、枕だのが、あの、所狭《ところせま》きまでといふ風であつたのが、不残《のこらず》ずツと引込んで、座敷の隅々《すみずみ》へ片着《かたづ》いて、右も左も見通しに、開放《あけはな》しの野原も急に広くなつたやうに思はれたと言ひます。
 然《そ》うすると、急に秋風が身に染《し》みて、其の男はぶる/\と震へ出したさうだがね、寂閑《しんかん》として人《ひと》ツ児《こ》一人《ひとり》居さうにもない。
 夢か現《うつつ》かと思う位。」
 桂木は語りながら、自《みずか》ら其の境遇に在《あ》る如く、
「目を瞑《ねむ》つて耳を澄《すま》して居ると、二重、三重、四重ぐらゐ、壁越《かべごし》に、琴《こと》の糸に風が渡つて揺れるやうな音で、細《ほそ》く、ひゆう/\と、お媼《ばあ》さん、今お前さんが言つてる其の糸車だ。
 此の炉を一《ひと》ツ、恁《こ》うして爰《ここ》で聞いて居てさへ遠い処《ところ》に聞えるが、其《その》音が、幽《かすか》にしたとね。
 其時《そのとき》茫乎《ぼんやり》と思ひ出したのは、昨夜《ゆうべ》の其の、奥方だか、姫様《ひいさま》だか、それとも御新姐《ごしんぞ》だか、魔だか、鬼だか、お閨《ねや》へ召しました一件のお館《やかた》だが、当座は唯《ただ》赫《かっ》と取逆上《とりのぼせ》て、四辺《あたり》のものは唯《ただ》曇つた硝子《ビイドロ》を透かして、目に映つたまでの事だつたさうだけれど。
 緋の袴《はかま》を穿《は》いても居なけりや、掻取《かいどり》を着ても届ない、たゞ、輝々《きらきら》した蒔絵《まきえ》ものが揃《そろ》つて、あたりは神々《こうごう》しかつた。狭い一室《ひとま》に、束髪《たばねが
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