二世の契
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一棟《ひとむね》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十七八|町《ちょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぶう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
一
真中に一棟《ひとむね》、小さき屋根の、恰《あたか》も朝凪《あさなぎ》の海に難破船の俤《おもかげ》のやう、且《か》つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、此《こ》の広野《ひろの》を、久しい以前汽車が横切《よこぎ》つた、其《そ》の時分《じぶん》の停車場《ステエション》の名残《なごり》である。
路《みち》も纔《わずか》に通ずるばかり、枯れても未《ま》だ葎《むぐら》の結《むす》ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨《こさめ》を透かして、遠く其の寂《さび》しい状《さま》を視《なが》めながら、
「もし、お媼《ばあ》さん、彼処《あすこ》までは何《ど》のくらゐあります。」
と尋ねたのは効々《かいがい》しい猟装束《かりしょうぞく》。顔容《かおかたち》勝《すぐ》れて清らかな少年で、土間《どま》へ草鞋穿《わらじばき》の脚《あし》を投げて、英国政府が王冠章の刻印《ごくいん》打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔《じゅうこう》は星の如きを、斜《ななめ》に古畳《ふるだたみ》の上に差置《さしお》いたが、恁《こ》う聞く中《うち》に、其の鳥打帽《とりうちぼう》を掻取《かきと》ると、雫《しずく》するほど額髪《ひたいがみ》の黒く軟《やわら》かに濡《ぬ》れたのを、幾度《いくたび》も払ひつゝ、太《いた》く野路《のじ》の雨に悩んだ風情《ふぜい》。
縁側もない破屋《あばらや》の、横に長いのを二室《ふたま》にした、古び曲《ゆが》んだ柱の根に、齢《よわい》七十路《ななそじ》に余る一人の媼《おうな》、糸を繰《く》つて車をぶう/\、静《しずか》にぶう/\。
「然《そ》うぢやの、もの十七八|町《ちょう》もござらうぞ、さし渡《わた》しにしては沢山《たんと》もござるまいが、人の歩行《ある》く路《みち》は廻り廻り蜒《うね》つて居るで、半里《はんり》の余《よ》もござりましよ。」と首を引込め、又|揺出《ゆりだ》すやうにして、旧|停車場《ステエション》の方《かた》を見ながら言つた、媼がしよぼ/\した目は、恁《こ》うやつて遠方のものに摺《こす》りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。
それから顔を上げ下《おろ》しをする度《たび》に、恒《つね》は何処《どこ》にか蔵《かく》して置くらしい、がツくり窪《くぼ》んだ胸を、伸《のば》し且《か》つ竦《すく》めるのであつた。
素直に伸びたのを其のまゝ撫《な》でつけた白髪《しらが》の其《それ》よりも、尚《なお》多いのは膚《はだ》の皺《しわ》で、就中《なかんずく》最も深く刻まれたのが、脊《せ》を低く、丁《ちょう》ど糸車を前に、枯野《かれの》の末に、埴生《はにゅう》の小屋など引《ひっ》くるめた置物同然に媼を畳《たた》み込んで置くのらしい。一度胸を伸《のば》して後《うしろ》へ反《そ》るやうにした今の様子で見れば、瘠《や》せさらぼうた脊丈《せたけ》、此の齢《よわい》にしては些《ち》と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本|細《ほそ》いのがある背戸《せど》の榛《はん》の樹立《こだち》の他《ほか》に、珍しい枯木《かれき》に見えよう。肉は干《ひから》び、皮|萎《しな》びて見るかげもないが、手、胸などの巌乗《がんじょう》さ、渋色《しぶいろ》に亀裂《ひび》が入つて下塗《したぬり》の漆《うるし》で固めたやう、未《ま》だ/\目立つのは鼻筋の判然《きっぱり》と通つて居る顔備《かおぞなえ》と。
黒ずんだが鬱金《うこん》の裏の附いた、はぎ/\の、之《これ》はまた美しい、褪《あ》せては居るが色々、浅葱《あさぎ》の麻《あさ》の葉、鹿子《かのこ》の緋《ひ》、国の習《ならい》で百軒から切《きれ》一《ひと》ツづゝ集めて継《つ》ぎ合す処《ところ》がある、其のちやん/\を着て、前帯《まえおび》で坐つた形で。
彼《か》の古戦場を過《よぎ》つて、矢叫《やさけび》の音を風に聞き、浅茅《あさじ》が原《はら》の月影に、古《いにしえ》の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の媼《おうな》が六十年の昔を推《すい》して、世にも希《まれ》なる、容色《みめ》よき上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》としても差支《さしつかえ》はないと思ふ、何となく犯《おか》し難《がた》き品位があつた。其の尖《とんが》つた顋《あぎと》のあたりを、すら/\と靡《なび》いて通る、綿《わた》の筋の幽《かすか》に白きさへ、やがて霜《しも》になりさうな冷《つめた》い雨。
少年は炉《ろ》の上へ両手を真直《まっすぐ》に翳《かざ》し、斜《ななめ》に媼の胸のあたりを窺《うかご》うて、
「はあ其では、何か、他《ほか》に通るものがあるんですか。」
媼は見返りもしないで、真向《まっこう》正面に渺々《びょうびょう》たる荒野《あれの》を控へ、
「他《ほか》に通るかとは、何がでござるの。」
「否《いいえ》、今|謂《い》つたぢやないか、人の通る路《みち》は廻り/\蜒《うね》つて居るつて。だから聞くんですが、他《ほか》に何か歩行《ある》きますか。」
「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、狐《きつね》も犬も通りませいで。霧《きり》がかゝりや、歩《ある》かうず、雲が下《おり》りや、走《はし》らうず、蜈蚣《むかで》も潜《もぐ》れば蝗《いなご》も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、顧《かえり》みて打微笑《うちほほえ》む。
二
此の口からなら、譬《たと》ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ処《ところ》もなし、又|然《そ》う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓|桂木氏《かつらぎし》、東京なる某《なにがし》学校の秀才で、今年夏のはじめから一種|憂鬱《ゆううつ》な病《やまい》にかゝり、日を経《ふ》るに従うて、色も、心も死灰《しかい》の如く、やがて石碑《いしぶみ》の下に形なき祭《まつり》を享《う》けるばかりになつたが、其の病の原因《もと》はと、渠《かれ》を能《よ》く知る友だちが密《ひそか》に言ふ、仔細あつて世を早《はよ》うした恋なりし人の、其の姉君《あねぎみ》なる貴夫人より、一挺《いっちょう》最新式の猟銃を賜《たま》はつた。が、爰《ここ》に差置《さしお》いた即是《すなわちこれ》。
武器を参らす、郊外に猟などして、自《みずか》ら励まし給《たま》へ、聞くが如き其の容体《ようだい》は、薬も看護《みとり》も効《かい》あらずと医師のいへば。但《ただし》御身《おんみ》に恙《つつが》なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を籠《こ》めた手紙を添へて、両三|日《にち》以前に御使者《ごししゃ》到来。
凭《よ》りかゝつた胸の離れなかつた、机の傍《そば》にこれを受取ると、額《ひたい》に手を加ふること頃刻《けいこく》にして、桂木は猛然として立つたのである。
扨《さて》今朝《こんちょう》、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新|停車場《ステエション》で唯《ただ》一|人《にん》下《お》り立つて、朝霧《あさぎり》の濃《こま》やかな野中《のなか》を歩《ほ》して、雨になつた午《ご》の時《とき》過ぎ、媼《おうな》の住居《すまい》に駈《か》け込んだまで、未《ま》だ嘗《かつ》て一度も煙を銃身に絡《から》めなかつた。
桂木は其の病《や》まざる前《ぜん》の性質に復《ふく》したれば、貴夫人が情《なさけ》ある贈物に酬《むく》いるため――函嶺《はこね》を越ゆる時汽車の中で逢《あ》つた同窓の学友に、何処《どちら》へ、と問はれて、修善寺《しゅぜんじ》の方へ蜜月《みつづき》の旅と答へた――最愛なる新婚の婦《ふ》、ポネヒル姫の第一発は、仇《あだ》に田鴫《たしぎ》山鳩《やまばと》如きを打たず、願はくは目覚《めざま》しき獲物を提《ひっさ》げて、土産《みやげ》にしようと思つたので。
時ならぬ洪水、不思議の風雨《ふうう》に、隙《ひま》なく線路を損《そこな》はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場《ステエション》を更《か》へた位、殊《こと》に桂木の一《いっ》家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々《しばしば》易《やす》からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野《あれの》を跋渉《ばっしょう》して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手《あいて》が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃《ねらいうち》で射《い》て取らうと言ふのであるから。
霧も雲も歩行《ある》くと語つた、仔細ありげな媼《おうな》の言《ことば》を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解《と》きかける。
油断はしないが俯向《うつむ》いたまゝ、
「私は又《また》不思議な物でも通るかと思つて悚然《ぞっ》とした、お媼《ばあ》さん、此様《こん》な処《ところ》に一人で居て、昼間だつて怖《おそろ》しくはないのですか。」
桂木は疾《と》く媼の口の、炎でも吐《は》けよかしと、然《さ》り気《げ》なく誘ひかける。
媼は額《ひたい》の上に綿《わた》を引いて、
「何が恐《おそろ》しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼《おおかみ》より雨漏《あまもり》が恐しいと言ふわいの。」
と又《また》背を屈《かが》め、胸を張り、手でこするが如くにし、外《と》の方《かた》を覗《のぞ》いたが、
「むかうへむく/\と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方《こちら》の方から雲が出て、そろ/\両方から歩行《あよ》びよつて、一所《ひとつ》になる時が此の雨ぢや。びしよ/\降ると寒うござるで、老寄《としより》には何より恐しうござるわいの。」
「あゝ、私も雨には弱りました、じと/\其処等中《そこらじゅう》へ染込《しみこ》んで、この気味の悪さと云つたらない、お媼《ばあ》さん。」
「はい、御難儀《ごなんぎ》でござつたろ。」
「お邪魔《じゃま》ですが此処《ここ》を借ります。」
桂木は足袋《たび》を脱ぎ、足の爪尖《つまさき》を取つて見たが、泥にも塗《まみ》れず、綺麗《きれい》だから、其のまゝ筵《むしろ》の上へ、ずいと腰を。
たとひ洗足《せんそく》を求めた処《ところ》で、媼《おうな》は水を汲《く》んで呉《く》れたか何《ど》うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹《おざさ》を風が渡るかと……音につれて積る白糸《しらいと》。
三
桂木は濡《ぬ》れた上衣《うわぎ》を脱ぎ棄《す》てた、カラアも外《はず》したが、炉のふちに尚《なお》油断なく、
「あゝ、腹が空《す》いた。最《も》う/\降るのと溜《たま》つたので濡れ徹《とお》つて、帽子から雫《しずく》が垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵《むしろ》が一枚ありや極楽、其処《そこ》で寝たいと思つたけれど、恁《こ》うしてお世話になつて雨露《あめつゆ》が凌《しの》げると、今度は虫が合点《がってん》しない、何《なん》ぞ食べるものはありませんか。」
「然《さ》ればなう、恐《おそろ》し気《げ》な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分《ころ》には、客も少々はござつたで、瓜《うり》なと剥《む》いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私《わし》が食《たべ》る分ばかり、其も黍《きび》を焚《た》いたのぢやほどに、迚《とて》もお口には合ふまいぞ。」
「否《いいえ》、飯《めし》は持つてます、何《ど》うせ、人里《ひとざと》のないを承知だつたから、竹包《たけづつみ》にして兵糧《ひょうろう》は持参ですが、お菜《さい》にするものがないんです、何か些《ちっ》と分けて貰《もら》ひたいと思ふんだがね。」
媼《おうな》は胸を折つてゆるや
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング