おのれ。」
と立身上《たちみあが》りに、盞《さかずき》を取って投げると、杯洗《はいせん》の縁《ふち》にカチリと砕けて、颯《さっ》と欠《かけ》らが四辺《あたり》に散った。
色めき白ける燈《ともしび》に、一重瞼《ひとえまぶち》の目を清《すず》しく、美津は伏せたる面《おもて》を上げた。
「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ[#「舞いまっせ」は底本では「舞いまつせ」]。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の銀杏《いちょう》の下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう貴下《あんた》、多一さんを虐《いじ》めんとおくれやす。
ちゃと隙《ひま》もろうて去《い》ぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」
と、襟の扇子を衝《つ》と抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京は紅《べに》、雪の狩衣|被《か》けながら、下萌《したも》ゆる血の、うら若草、萌黄《もえぎ》は難波《なにわ》の色である。
丸官は掌《こぶし》を握った。
多一の声は凜々《りんりん》として、
「しもにんにんの宝の中に――火取る玉、水取る玉……イヤア、」
と一つ掛けた声が、たちまち切なそうに掠《かす》れた時よ。
(ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる錦葉《もみじ》の音かと、虚空に響いた鼓の掛声。
(コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)摺鉦《すりがね》入れた後囃子《あとばやし》が、遥《はるか》に交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な気勢《けはい》。
が、座を乱すものは一人もなかった。
「船の中には何とお寝《よ》るぞ、苫《とま》を敷寝に、苫を敷寝に楫枕《かじまくら》、楫枕。」
玉を伸べたる脛《はぎ》もめげず、ツト美津は、畳に投げて手枕《たまくら》した。
その時は、別に変った様子もなかった。
多一が次第に、歯も軋《きし》むか、と声を絞って、
「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまた冴《さ》ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」
ト袖を捲いて、扇子《おうぎ》を翳《かざ》し、胸を反らして熟《じっ》と仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、瞬《またたさ》もせず※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ると斉《ひと》しく、笑靨《えくぼ》に颯《さっ》と影がさして、爪立《つまだ》つ足が震えたと思うと、唇をゆがめた皓歯《しらは》に、莟《つぼみ》のような血を噛《か》んだが、烏帽子の紐の乱れかかって、胸に千条《ちすじ》の鮮血《からくれない》。
「あ、」
と一声して、ばったり倒れる。人目も振《ふり》も、しどろになって背《せな》に縋《すが》った。多一の片手の掌《てのひら》も、我が唇を圧《おさえ》余って、血汐《ちしお》は指を溢《あふ》れ落ちた。
一座わっと立騒ぐ。階子《はしご》へ遁《に》げて落ちたのさえある。
引仰向《ひきあおむ》けてしっかと抱き、
「美津《みい》さん!……二、二人は毒害された、お珊、お珊、御寮人、お珊め、婦《おんな》!」
二十八
「床几《しょうぎ》、」
と、前後《まえうしろ》の屋台の間に、市女《いちめ》の姫の第五人目で、お珊が朗かな声を掛けた。背後《うしろ》に二人、朱の台傘を廂《ひさし》より高々と地摺《じずれ》の黒髪にさしかけたのは、白丁扮装《はくちょうでたち》の駕寵《かご》人足。並んで、萌黄紗《もえぎしゃ》に朱の総《ふさ》結んだ、市女笠を捧げて従ったのは、特にお珊が望んだという、お美津の爺《じい》の伝五郎。
印半纏《しるしばんてん》、股引《ももひき》、腹掛けの若いものが、さし心得て、露じとりの地に据えた床几に、お珊は真先《まっさき》に腰を掛けた。が、これは我儘《わがまま》ではない。練《ねり》ものは、揃って、宗右衛門町のここに休むのが習《ならい》であった。
屋台の前なる稚児《ちご》をはじめ、間をものの二|間《けん》ばかりずつ、真直《まっすぐ》に取って、十二人が十二の衣《きぬ》、色を勝《すぐ》った南地の芸妓《げいこ》が、揃って、一人ずつ皆床几に掛かる。
台傘の朱は、総二階一面軒ごとの緋《ひ》の毛氈《もうせん》に、色|映交《さしか》わして、千本《ちもと》植えたる桜の梢《こずえ》、廊《くるわ》の空に咲かかる。白の狩衣、紅梅小袖、灯《ともしび》の影にちらちらと、囃子の舞妓、芸妓など、霧に揺据《ゆりすわ》って、小鼓、八雲琴《やくもごと》の調《しらべ》を休むと、後囃子《あとばやし》なる素袍の稚児が、浅葱桜《あさぎざくら》を織交ぜて、すり鉦《がね》、太鼓の音《ね》も憩う。動揺《どよめき》渡る見物は、大河の水を堰《せ》いたよう、見渡す限り列のある間、――一尺ごとに百目蝋燭《ひゃくめろうそく》、裸火を煽《あお》らし立てた、黒塗に台附の柵の堤を築いて、両方へ押分けたれば、練もののみが静まり返って、人形のように美しく且つ凄《すご》い。
ただその中を、福草履ひたひたと地を刻んで、袴《はかま》の裾を忙《せわ》しそう。二人三人、世話人が、列の柵|摺《ず》れに往《ゆ》きつ還《かえ》りつ、時々顔を合わせて、二人|囁《ささや》く、直ぐに別れてまた一人、別な世話人とちょっと出遇《であ》う。中に一人落しものをしたように、うろうろと、市女たちの足許《あしもと》を覗《のぞ》いて歩行《ある》くものもあって、大《おおき》な蟻の働振《はたらきぶり》、さも事ありげに見えるばかりか、傘さしかけた白丁どもも、三人ならず、五人ならず、眉を顰《ひそ》め口を開けて空を見た。
その空は、暗く濁って、ところどころ朱の色を交えて曇った。中を一条《ひとすじ》、列を切って、どこからともなく白気《はっき》が渡って、細々と長く、遥《はるか》に城ある方《かた》に靡《なび》く。これを、あたりの湯屋の煙、また、遠い煙筒《えんとつ》の煙が、風の死したる大阪の空を、あらん限り縫うとも言った。
宵には風があった。それは冷たかったけれども、小春凪《こはるなぎ》の日の余残《なごり》に、薄月さえ朧々《おぼろおぼろ》と底の暖いと思ったが、道頓堀で小休みして、やがて太左衛門橋を練込む頃から、真暗《まっくら》になったのである。
鴉は次第に数を増した。のみならず、白気の怪《あやし》みもあるせいか、誰云うとなく、今夜十二人の市女の中に、姫の数が一人多い。すべて十三人あると言交わす。
世話人|徒《てあい》が、妙に気にして、それとなく、一人々々数えてみると、なるほど一人姫が多い。誰も彼も多いと云う。
念のために、他所見《よそみ》ながら顔を覗《のぞ》いて、名を銘々に心に留めると、決して姫が殖《ふ》えたのではない。定《おきて》の通り十二人。で、また見渡すと十三人。
……式の最初、住吉|詣《もうで》の東雲《しののめ》に、女紅場で支度はしたが、急にお珊が気が変って、社《やしろ》へ参らぬ、と言ったために一人|俄拵《にわかごしら》えに数を殖《ふ》やした。が、それは伊丹幸《いたこう》の政巳《まさみ》と云って、お珊が稚《わか》い時から可愛がった妹分。その女は、と探ってみると、現に丸官に呼ばれて、浪屋の表座敷に居ると云うから、その身代りが交ったというのでもないのに。……
それさえ尋常《ただ》ならず、とひしめく処に、搗《か》てて加えて易からぬは、世話人の一人が見附けた――屋台が道頓堀を越す頃から、橋へかけて、列の中に、たらたら、たらたらと一雫《ひとしずく》ずつ、血が落ちていると云うのである。
二十九
一人多い、その姫の影は朧《おぼろ》でも、血のしたたりは現に見て、誰が目にも正《まさ》しく留った。
灯の影に地を探って、穏《おだやか》ならず、うそうそ捜《さがし》ものをして歩行《ある》くのは、その血のあとを辿《たど》るのであろう。
消防夫《しごとし》にも、駕籠屋にも、あえて怪我をしたらしいのはない。婦《おんな》たちにも様子は見えぬ。もっとも、南地第一の大事な市の列に立てば、些細《ささい》な疵《きず》なら、弱い舞妓も我慢して秘《かく》して退《の》けよう。
が、市に取っては、上もなき可忌《いまわ》しさで。
世話人は皆激しく顰《ひそ》んだ。
知らずや人々。お珊は既に、襟に秘《かく》し持った縫針で、裏を透《とお》して、左の手首の動脈を刺し貫いていたのである。
ただ、初《はじめ》から不思議な血のあとを拾って、列を縫って検《しら》べて行《ゆ》くと、静々《しずしず》と揃って練る時から、お珊の袴の影で留ったのを人を知った。
ここに休んでから、それとなく、五人目の姫の顔を差覗《さしのぞ》くものもあった。けれども端然としていた。黛《まゆずみ》の他に玲瓏《れいろう》として顔に一点の雲もなかった。が、右手《めて》に捧げた橘《たちばな》に見入るのであろう、寂《さみ》しく目を閉じていたと云う。
時に、途中ではさもなかった。ここに休む内に、怪しき気のこと、点滴《したた》る血の事、就中《なかんずく》、姫の数の幻に一人多い事が、いつとなく、伝えられて、烈《はげ》しく女どもの気を打った。
自然と、髪を垂れ、袖を合せて、床几なる姫は皆、斉《ひと》しくお珊が臨終の姿と同じ、肩のさみしい風情となった。
血だらけだ、血だらけだ、血だらけの稚児だ――と叫ぶ――柵の外の群集《ぐんじゅ》の波を、鯱《しゃち》に追われて泳ぐがごとく、多一の顔が真蒼《まっさお》に顕《あらわ》れた。
「お呼びや、私をお知らせや。」
とお珊が云った。
伝五|爺《じじい》は、懐を大きく、仰天した皺嗄声《しわがれごえ》を振絞って、
「多一か、多一はん――御寮人様はここじゃ。」と喚《わめ》く。
早や柵の上を蹌踉《よろ》めき越えて、虚空を掴《つか》んで探したのが、立直って、衝《つ》と寄った。
が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。
「ああ、待遠《まちどお》な、多一さん、」
と黒髪|揺《ゆら》ぐ、吐息《といき》と共に、男の肩に手を掛けた。
「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をば瞑《ねむ》ったやろ。やっとここまで堪《こら》えたえ。も一度顔を、と思うよって……」
丸官の握拳《にぎりこぶし》が、時に、瓦《かわら》の欠片《かけら》のごとく、群集を打ちのめして掻分《かきわ》ける。
「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。
台傘が颯《さっ》と斜めになった。が、丸官の忿怒《ふんぬ》は遮り果てない。
靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、懐中《ふところ》へ衝《つ》と手を入れて、両方へ振って、扱《しご》いて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋|電《いなずま》のごとく光って飛んだ。
わ、と立騒ぐ群集《ぐんじゅ》の中へ、丸官の影は揉込《もみこ》まれた。一人|渠《かれ》のみならず、もの見高く、推掛《おしかか》った両側の千人は、一斉に動揺《どよみ》を立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋|揚屋《あげや》の軒に余って、土足の泥波を店へ哄《どっ》と……津波の余残《なごり》は太左衛門橋、戒橋《えびすばし》、相生橋《あいおいばし》に溢《あふ》れかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。
見よ、見よ、鴉が蔽《おお》いかかって、人の目、頭《かしら》に、嘴《はし》を鳴らすを。
お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑《にげまど》うた。その数はただ二条《ふたすじ》ではない。
屋台から舞妓が一人|倒《さかさま》に落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。
それ、怪我人よ、人死《ひとじに》よ、とそこもここも湧揚る。
お珊は、心|静《しずか》に多一を抱いた。
「よう、顔見せておくれやす。」
「口惜《くちおし》い。御寮人、」と、血を吐きながら頭《かぶり》を振る。
「貴方《あんた》ばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が涸《か》れて、蒼白《あおじろ》んで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血《からくれない
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