》に染まったのが、重く多一の膝に落ちた。
 男はしばらく凝視《みつ》めていた。
「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、愛《いと》しい事だけには、立派に我ままして見しょう。
 宝市のこの服装《なり》で、大阪中の人の見る前で、貴方《あんた》の手を引いて……なあ、見事丸官を蹴《け》て見しょう、と命をかけて思うたに。……先刻《さっき》盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。
 一昨日《おととい》の芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、堪《こら》えやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、貴下《あんた》は二十《はたち》。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」
 とて、はじめて、はらはらと落涙した。
 絶入る耳に聞分けて、納得したか、一度《ひとたび》は頷《うなず》いたが、
「私は、私は、御寮人、生命《いのち》が惜《おし》いと申しません。可哀気《かわいげ》に、何で、何で、お美津を……」
 と聞きも果さず……
「わあ、」と魂切《たまぎ》る。
 伝五|爺《じじい》の胸を圧《おさ》えて、
「人が立騒いで邪魔したら、撒散《まきちら》かいて払い退《の》きょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その懐中《ふところ》に沢山《たんと》ある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。
 お聞きやす、多一さん、美津《みい》さんは、一所に連れずと、一人|活《い》かいておきたかった。貴方《あんた》と二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。
 違うたかえ、分ったかえ、冥土《めいど》へ行てかて、二人をば並べておく、……遣瀬《やるせ》ない、私の身にもなってお見や。」
 幽《かすか》ながらに声は透《とお》る。
「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……――左のこの手の動く方は、義理やあの娘《こ》の手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」
 と床几を離れて、すっくと立つ。身動《みじろ》ぎに乱るる黒髪。髻《もとどり》ふつ、と真中《まんなか》から二岐《ふたすじ》に颯《さっ》となる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握って捌《さば》いたのを、翳《かざ》すばかりに、浪屋の二階を指麾《さしまね》いた。
「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」
 練ものの列は疾《と》く、ばらばらに糸が断《き》れた。が、十一の姫ばかりは、さすが各目《てんで》に名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、飛々《とびとび》に、背《せな》を潜《ひそ》め、顔《おもて》を蔽《おお》い、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島|籠《こ》めた群集《ぐんじゅ》が叫喚《きょうかん》の凄《すさま》じき中に、紅《くれない》の袴一人々々、点々として皆|留《とど》まった。
 と見ると、雲の黒き下に、次第に不知火《しらぬい》の消え行く光景《ありさま》。行方も分かぬ三人に、遠く遠く前途《ゆくて》を示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。
 お珊は、幽《かすか》に、目も遥々《はるばる》と、一人ずつ、その十一の燈《ともしび》を視《み》た。
[#地から1字上げ]明治四十五(一九一二)年一月



底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店
   1942(昭和17)年3月10日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年11月2日作成
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