南地心中
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)初阪《はつざか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)茶|献上博多《けんじょうはかた》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+發」、450−1]《ぱっ》と
−−
一
「今のは、」
初阪《はつざか》ものの赤毛布《あかげっと》、という処《ところ》を、十月の半ば過ぎ、小春凪《こはるなぎ》で、ちと逆上《のぼ》せるほどな暖かさに、下着さえ襲《かさ》ねて重し、野暮な縞《しま》も隠されず、頬被《ほおかぶ》りがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波《つくば》、はじめて、出立《いでた》つを初山と称《とな》うるに傚《なら》って、大阪の地へ初見参《ういけんざん》という意味である。
その男が、天満橋《てんまばし》を北へ渡越した処で、同伴《つれ》のものに聞いた。
「今のは?」
「大阪城でございますさ。」
と片頬《かたほ》笑みでわざと云う。結城《ゆうき》の藍微塵《あいみじん》の一枚着、唐桟柄《とうざんがら》の袷羽織《あわせばおり》、茶|献上博多《けんじょうはかた》の帯をぐいと緊《し》め、白柔皮《しろなめし》の緒の雪駄穿《せったばき》で、髪をすっきりと刈った、気の利いた若いもの、風俗は一目で知れる……俳優《やくしゃ》部屋の男衆《おとこしゅ》で、初阪ものには不似合な伝法。
「まさか、天満の橋の上から、淀川《よどがわ》を控えて、城を見て――当人寝が足りない処へ、こう照《てり》つけられて、道頓堀《どうとんぼり》から千日前、この辺の沸《にえ》くり返る町の中を見物だから、茫《ぼう》となって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事は確《たしか》に承知の上です――言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。」
「御道理《ごもっとも》で、ふふふ、」
男衆はまた笑いながら、
「ですがね、欄干へ立って、淀川堤を御覧なさると、貴方《あなた》、恍惚《うっとり》とおなんなさいましたぜ。熟《じっ》と考え込んでおしまいなすって、何かお話しするのもお気の毒なような御様子ですから、私も黙《だんま》りでね。ええ、……時間の都合で、そちらへは廻らないまでも、網島の見当は御案内をしろって、親方に吩咐《いいつ》かって参ったんで、あすこで一ツ、桜宮から網島を口上で申し上げようと思っていたのに、あんまり腕組をなすったんで、いや、案内者、大きに水を見て涼みました。
それから、ずっと黙りで、橋を渡った処で、(今のは、)とお尋ねなさるんでさ、義理にも大阪城、と申さないじゃ、第一日本一の名城に対して、ははは、」とものありげにちょっと顔を見る。
初阪は鳥打の庇《ひさし》に手を当て、
「分りましたよ。真田幸村《さなだゆきむら》に対しても、決して粗略には存じません。萌黄色《もえぎいろ》の海のような、音に聞いた淀川が、大阪を真二《まっぷた》つに分けたように悠揚《ゆっくり》流れる。
電車の塵《ちり》も冬空です……澄透《すみとお》った空に晃々《きらきら》と太陽《ひ》が照って、五月頃の潮《うしお》が押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を視《なが》めるように、あの、城が見えたっけ。
川蒸汽の、ばらばらと川浪を蹴《け》るのなんぞは、高櫓《たかやぐら》の瓦《かわら》一枚浮かしたほどにも思われず、……船に掛けた白帆くらいは、城の壁の映るのから見れば、些細《ささい》な塵です。
その、空に浮出したような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思うと、歴然《ありあり》と、ああ、あれが、嬰児《あかんぼ》の時から桃太郎と一所にお馴染《なじみ》の城か、と思って見ていると、城のその屋根の上へ、山も見えぬのに、鵺《ぬえ》が乗って来そうな雲が、真黒《まっくろ》な壁で上から圧附《おしつ》けるばかり、鉛を熔《と》かして、むらむらと湧懸《わきかか》って来たろうではないか。」
初阪は意気を込めて、杖《ステッキ》をわきに挟んで云った。
二
七筋ばかり、工場の呼吸《いき》であろう、黒煙《くろけむり》が、こう、風がないから、真直《まっすぐ》に立騰《たちのぼ》って、城の櫓《やぐら》の棟を巻いて、その蔽被《おおいかぶさ》った暗い雲の中で、末が乱れて、むらむらと崩立《くずれた》って、倒《さかさま》に高く淀川の空へ靡《なび》く。……
なびくに脈を打って、七筋ながら、処々《ところどころ》、斜めに太陽の光を浴びつつ、白泡立てて渦《うずま》いた、その凄《すご》かった事と云ったら。
天守の千畳敷へ打込んだ、関東勢の大砲《おおづつ》が炎を吐いて転がる中に、淀君をはじめ、夥多《あまた》の美人の、練衣《ねりぎぬ》、紅《くれない》の袴《はかま》が寸断々々《ずたずた》に、城と一所に滅ぶる景色が、目に見える。……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、縺《もつ》れて乱れるよう、そして、倒《さかさま》に立ったのは、長《とこしえ》に消えぬ人々の怨恨《うらみ》と見えた。
大河《おおかわ》の両岸《りょうぎし》は、細い樹の枝に、薄紫の靄《もや》が、すらすら。蒼空《あおぞら》の下を、矢輻《やぼね》の晃々《きらきら》と光る車が、駈《か》けてもいたのに、……水には帆の影も澄んだのに、……どうしてその時、大阪城の空ばかり暗澹《あんたん》として曇ったろう。
「ああ、あの雲だ。」
と初阪は橋の北詰に、ひしひしと並んだ商人家《あきんどや》の、軒の看板に隠れた城の櫓《やぐら》の、今は雲ばかりを、フト仰いだ。
が、俯向《うつむ》いて、足許《あしもと》に、二人連立つ影を見た。
「大丈夫だろうかね。」
「雷様ですか。」
男衆は逸早《いちはや》く心得て、
「串戯《じょうだん》じゃありませんぜ。何の今時……」
「そんなら可《い》いが、」
歩行《あるき》出す、と暗くなり掛けた影法師も、烈《はげ》しい人脚の塵に消えて、天満《てんま》筋の真昼間《まっぴるま》。
初阪は晴《はれ》やかな顔をした。
「凄《すご》かったよ、私は。……その癖、この陽気だから、自然と淀川の水気が立つ、陽炎《かげろう》のようなものが、ひらひらと、それが櫓の面《おもて》へかかると、何となく、※[#「火+發」、450−1]《ぱっ》と美しい幻が添って、城の名を天下に彩っているように思われたっけ。その花やかな中にも、しかし、長い、濃い、黒髪が潜《ひそ》んで、滝のように動いていた。」
城を語る時、初阪の色酔えるがごとく、土地|馴《な》れぬ足許は、ふらつくばかり危《あやぶ》まれたが、対手《あいて》が、しゃんと来いの男衆だけ、確《たしか》に引受けられた酔漢《よっぱらい》に似て、擦合い、行違う人の中を、傍目《わきめ》も触《ふ》らず饒舌《しゃべ》るのであった。
「時に、それについて、」
「あの、別嬪《べっぴん》の事でしょう。私たちが立停《たちど》まって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方を視《なが》めていた、あれでしょう。……貴方《あなた》が(今のは!)ッて一件は。それ、奴《やっこ》を一人、お供に連れて、」
「奴を……十五六の小間使だぜ。」
「当地じゃ、奴ッてそう言います。島田|髷《まげ》に白丈長《しろたけなが》をピンと刎《は》ねた、小凜々《こりり》しい。お約束でね、御寮人には附きものの小女《こおんな》ですよ。あれで御寮人の髷が、元禄だった日にゃ、菱川師宣《ひしかわもろのぶ》えがく、というんですね。
何だろう、とお尋ねなさるのは承知の上でさ、……また、今のを御覧なすって、お聞きなさらないじゃ、大阪が怨《うら》みます。」
「人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちと癪《しゃく》だろうじゃないか。」
「はははは。」
「しかし縁のない事はない。そうして、熟《じっ》とあの、煙の中の凄《すご》い櫓を視《なが》めていると、どうだろう。
四五間|前《さき》に、上品な絵の具の薄彩色《うすさいしき》で、彳《たたず》んでいた、今の、その美人の姿だがね、……淀川の流れに引かれた、私の目のせいなんだろう。すッと向うに浮いて行って、遠くの、あの、城の壁の、矢狭間《やざま》とも思う窓から、顔を出して、こっちを覗《のぞ》いた。そう見えた。いつの間にか、城の中へ入って、向直って。……
黒雲の下、煙の中で、凄いの、美しいの、と云ッて、そりゃなかった。」
三
「だから、何だか容易ならん事が起った、と思って、……口惜《くや》しいが聞くんです。
実はね、昨夜《ゆうべ》、中座を見物した時、すぐ隣りの桟敷《さじき》に居たんだよ、今の婦人《おんな》は……」と頷《うなず》くようにして初阪は云う。
男衆はまた笑った。
「ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、唯今《ただいま》一見《いちげん》という顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。」
「だって、住吉《すみよし》、天王寺も見ない前《さき》から、大阪へ着いて早々、あの婦《おんな》は? でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖に躓《けつまず》いて転ぶようだから、痩我慢《やせがまん》で黙然《だんまり》でいたんだ。」
「ところが、辛抱が仕切れなくなったでしょう、ごもっともですとも。親方もね、実は、お景物にお目に掛ける、ちょうど可《い》いからッて、わざと昨夜《ゆうべ》も、貴方《あなた》を隣桟敷へ御案内申したんです。
附込《つけこ》みでね、旦那と来ていました。取巻きに六七人|芸妓《げいこ》が附いて。」
男衆の顔を見て、
「はあ、すると堅気かい、……以前はとにかく、」
また男衆は、こう聞かれるのを合点《がってん》したらしく頷《うなず》くのであった。
「貴方、当時また南新地から出ているんです。……いいえ、旦那が変ったんでも、手が切れたのでもありません。やっぱり昨夜《ゆうべ》御覧なすった、あれが元からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四五日前まで、久しく引かされて、桜の宮の片辺《かたほとり》というのに、それこそ一枚絵になりそうな御寮人で居たんですがね。あの旦那の飛んだもの好《ずき》から、洒落《しゃれ》にまた鑑札を請けて、以前のままの、お珊《さん》という名で、新しく披露《ひろめ》をしました。」と質実《じみ》に話す。
「阪地《かみがた》は風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで手活《ていけ》にした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、お庇《かげ》で土産にありついたという訳だ。」
「いいえ、隣桟敷の緋《ひ》の毛氈《もうせん》に頬杖《ほおづえ》や、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、翌々日《あさって》の晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市の練《ねり》に出て、下げ髪、緋の袴《はかま》という扮装《なり》で、八年ぶりで練りますから。」
一言《ひとこと》、下げ髪、緋の袴、と云ったのが、目のあたり城の上の雲を見た、初阪の耳を穿《うが》って響いた。
「何、下げ髪で、緋の袴?……」
「勿論一人じゃありません――確か十二人、同じ姿で揃って練ります。が、自分の髪を入髪《いれげ》なしに解《とき》ほぐして、その緋の袴と擦れ擦れに丈に余るってのは、あの婦《おんな》ばかりだと云ったもんです。一度引いて、もうそんなに経《た》ちますけれども、私《わっし》あ今日も、つい近間で見て驚きました。
苦労も道楽もしたろうのに、雁金額《かりがねびたい》の生際《はえぎわ》が、一厘だって抜上がっていませんやね、ねえ。
やっぱり入髪なしを水で解いて、宝市は屋台ぐるみ、象を繋《つな》いで曳《ひ》きましょうよ。
旦那もね、市に出して、お珊さんのその姿を、見たり、見せたり
次へ
全11ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング