前《さき》へ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭《まじない》であるようにした。
「密々《ひそひそ》、話していやはったな。……そこへ、私が行合《ゆきあ》[#ルビの「ゆきあ」は底本では「ゆきわ」]わせたも、この杯の瑞祥《ずいしょう》だすぜ。
 ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯《しょたい》持ってそこから本店《ほんだな》へ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして行《ゆ》かはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに否《いや》は言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津《みい》さんが、あの、嬉しそうなえ。
 どうや、九太夫《くだゆう》はん。」
 と云った、お珊は、密《そっ》と声を立てて、打解けた笑顔になった。
 多一は素袍の浅葱《あさぎ》を濃く、袖を緊《し》めて、またその顔を、はッと伏せる。
「ほほほほ多一さん、貴下《あんた》、そうむつかしゅうせずと、胡坐《じょうら》組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの傍《そば》に居るのやない、この一月は籍のある、富田屋《とんだや》の以前の芸妓《げいこ》、そのつもりで酌をするのえ。
 仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。後《のち》にまたあらためて、歴然《れっき》とした媒妁人《なこうど》立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯《わやく》は言えやへん。
 そない極《きま》らずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」
「御寮人様。」
 と片手を畳へ、
「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は情《なさけ》のうござります。」
 と、術なき中にも、ものの嬉しそうな笑《えみ》を含んだ。
「そうやかて、貴方《あんた》、一昨日《おととい》の暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛|框《かまち》の縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」
 言う――それは事実であった。――
「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その框《かまち》へ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。
 その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの薫《かおり》が、魔薬とやらを嗅《か》ぎますようで、気が遠くなりました。
 その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」
「ほほほ可厭《いや》な、この人は。……最初はな、内証で情婦《いろ》に逢やはるより何の余所《よそ》の人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の裡《うち》が、水臭いようにあって、口惜《くやし》いと思うたけれど、な、……手を支《つ》いて詫《わび》言《い》やはる……その時に、門《かど》のとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、大《おおき》な猿が、土間へ跳下《とびお》りて、貴下《あんた》と一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。
 柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。
 天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方《さき》を話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切《だいじ》な許《とこ》に居るやもの。
 おお、それなりで、貴方《あんた》たちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」
「はい、」
 と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景《ようす》、踊のさらいに台辞《せりふ》を云うよう、細く透《とお》る、が声震えて、
「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」

       二十二

「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」
 多一は片手に胸を圧《おさ》えて、
「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」
「何や……怪我《けが》に貴方《あんた》は何やかて、美津《みい》さんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、雛《ひな》を並べたようやないか。
 けどな、多一さん、貴下《あんた》な、九太夫やったり、そのな、額の疵《きず》で、床下から出やはった処は仁木《にっき》どすせ。沢山《たんと》忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」
 と軽口に、奥もなく云うて退《の》けたが、ほんのりと潤《うる》みのある、瞼《まぶた》に淡く影が映《さ》した。
「ああ、わやく云う事やない。……貴方《あんた》、その疵、ほんとにもう疼痛《いたみ》はないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が傍《そば》に居たものを。美津《みい》さんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。
 そやけど、美津さん、怨《うら》みにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲《ちょうちゃく》されて、熟《じっ》と堪《こら》えていやはったも、辛抱しとげて、貴女《あんた》と一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中《しんじゅう》の極印《ごくいん》打ったも同じ事、喜んだかて可《い》いのどす。」
 お美津は堪《こら》えず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色《ときいろ》衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に搦《から》む、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の靨《えくぼ》に、前髪の艶しとしとと。
 お珊は眦《まなじり》を多一に返して、
「な、多一さんもそうだすやろな。」
「はい!」と聞返すようにする。
「丸官はんに、柿の核《たね》吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇《らう》のポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身《しにみ》になって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」
「…………」
「なあ、貴方、」
「…………」
「ええ、多一さん、新枕《にいまくら》の初言葉《ういことば》と、私もここでちゃんと聞く。……女子《おなご》は女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」
 と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向《うつむ》いて見なかった。
「……ものやさかい、美津さんの後の手券《てがた》に、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」
「ええ、」
「あの、美津さんへの心中だてかえ。」
 多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫《さしぬき》に、刀なき腰は寂しいものであった。
「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」
 お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに支《つ》いていた、簪《かんざし》の橘《たちばな》薫りもする。
「おお……嬉し……」
 と胸を張って、思わず、つい云う。声の綾《あや》に、我を忘れて、道成寺の一条《ひとくだり》の真紅の糸が、鮮麗《あざやか》に織込まれた。
 それは禁制の錦《にしき》であった。
 ふと心付いた状《さま》して、動悸《どうき》を鎮めるげに、襟なる檜扇《ひおうぎ》の端をしっかと圧《おさ》えて、ト後《うしろ》を見て、襖《ふすま》にすらり靡《なび》いた、その下げ髪の丈を視《なが》めた。
 お珊の姿は陰々とした。

       二十三

 夫婦が二人、その若い顔を上げた時、お珊は何気なき面色《おももち》した。
「ほんになあ、くどいようなが多一さん、よう辛抱しやはった。中の芝居で、あの事がなかったら、幾ら私が無理云うたかて、丸官はんにこの祝言を承知さす事はようせんもの。……そりゃな、夫婦にはならはったかて、立行くように世帯が出来んとならんやないか。
 通い勤めなり、別に資本出すなりと、丸官はんに、応、言わせたも、皆、貴方《あんた》が、美津《みい》さんのために堪《こら》えなはった、心中立《しんじゅうだて》一つやな。十年七年の奉公を一度に済ましなはったも同じ事。
 額の疵《きず》は、その烏帽子に、金剛石《ダイヤモンド》を飾ったような光が映《さ》す……おお、天晴《あっぱれ》なお婿はん。
 さあ、お嫁はん、お酌しょうな。」
 と軽く云ったが、艶麗《あでやか》に、しかも威儀ある座を正して、
「お盞《さかずき》。」
 で、長柄の銚子《ちょうし》に手を添えた。
 朱塗の蒔絵《まきえ》の三組《みつぐみ》は、浪に夕日の影を重ねて、蓬莱《ほうらい》の島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。
「さ、お受けや。」
 と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、騒立《さわぎた》つらしい胸の響きに、烏帽子の総《ふさ》の揺るるのみ。美津は遣瀬《やるせ》なげに手を控える。
 ト熟《じっ》と視《み》て、
「おお、まだ年の行《ゆ》かぬ、嬰児《ねね》はんや。多一はんと、酒事《ささごと》しやはった覚えがないな。貴女《あんた》盞を先へ取るのを遠慮やないか。三々九度は、嫁はんが初手に受けるが法やけれど、別に儀式だった祝言やないよって、どうなと構わん。
 そやったら多一さん、貴方《あんた》先へお受けやす。」
「はい、」と斉《ひと》しく逡巡《しりごみ》する。
「どうしやはったえ。」
「御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……」
 とちょっと目を合せた。
「女から、お盞を頂かして下さりまし。」
「そやかて、含羞《はにかん》でいて取んなはらん。……何や、貴方《あんた》がた、おかしなえ。」
 ふと気色ばんだお珊の状《さま》に、座が寂《しん》として白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、音《ね》じめの音が響いたのである。
 二人は黙って差俯向《さしうつむ》く。……
 お珊は、するりと膝を寄せた。屹《きっ》として、
「早うおしや! 邪魔が入るとならんよって、私も直《じ》きに女紅場へ行かんとならんえ。……な、あの、酌人が不足なかい。」
 二人は、せわしげに瞳を合して、しきりに目でものを云っていた。
「もし、」
 と多一が急《せ》いた声で、
「御寮人様、この上になお罰が当ります。不足やなんの、さような事がありまして可《い》いものでござりますか。御免下さりまし、申しましょう。貴女様、その召しました、両方のお袂《たもと》の中が動きます。……美津は、あの、それが可恐《こわ》いのでござります。」と判然《はっきり》云った。
 と、頤《おとがい》を檜扇《ひおうぎ》に、白小袖の底を透《すか》して、
「これか、」
 と投げたように言いながら、衝《つ》と、両手を中へ、袂を探って、肩をふらりと、なよなよとその唐織の袖を垂れたが、品《ひん》を崩して、お手玉持つよ、と若々しい、仇気《あどけ》ない風があった。
「何や、この二条《ふたすじ》の蛇が可恐い云うて?……両方とも、言合わせたように、貴方《あんた》二人が、自分たちで、心願掛けたものどっせ。
 餅屋の店で逢うた時、多一さん、貴方《あんた》はこの袋一つ持っていた。な、買うて来るついではあって、一夜《ひとよさ》祈《いのり》はあげたけれど、用の間が忙しゅうて、夜さり高津の蛇穴へ放しに行《ゆ》く隙《ひま》がない、頼まれて欲《ほし》い――云うて、美津さんに託《ことづ》きょう、とそれが用で顔見に行《ゆ》かはった云うたやないか。」

       二十四

「美津さんもまた、日が暮れたら、高津へ行て放す心やった云うて、自分でも一筋。同じ袋に入ったのが、二ツ、ちょんと、あの、猿の留木《とまりぎ》の下に揃えてあって、――その時、私に打明けて二人して言やはったは、つい一昨日《おととい》の晩方や。
 それもこれも、貴方《あんた》がた、芝居の事があってから、あんな奉公早う罷《や》めて、すぐにも夫婦になれるようにと、身体《からだ》は両方別れていて、言合せはせぬけれど、同じ日、同
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