色めく姿、爪尖《つまさき》まで、――さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。

       十八

 池の面《おも》は、蒼《あお》く、お珊の唇のあたりに影を籠《こ》めた。
 風少し吹添って、城ある乾《いぬい》の天《そら》暗く、天満宮の屋の棟が淀《どんよ》り曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、幟《のぼり》の声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を掠《かす》めて。……この水のある空ばかり、雲に硝子《がらす》を嵌《は》めたるごとく、美女《たおやめ》の虹《にじ》の姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた木《こ》の葉は淡く、松の影が颯《さっ》と濃い。
 打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、腕《かいな》の色ながら、しろじろと鱗《うろこ》が光って、その友染に搦《から》んだなりに懐中《ふところ》から一条《ひとすじ》の蛇《くちなわ》の蜿《うね》り出た、思いかけず、ものの凄《すさま》じい形になった。
「あ、」
 と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に銜《くわ》えたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。
 奴《やっこ》はじりじりと後に退《すさ》った。
 お珊は汀《みぎわ》にすっくと立った。が、血が留って、俤《おもかげ》は瑪瑙《めのう》の白さを削ったのであった。
 この婦《おんな》が、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。
 日も待たず、その翌《あけ》の日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、――丸官が昨夜《ゆうべ》芝居で振舞った、酒の上の暴虐《ぼうぎゃく》の負債《おいめ》を果させるため、とあって、――南新地の浪屋の奥二階。金屏風《きんびょうぶ》を引繞《ひきめぐ》らした、四海《しかい》波《なみ》静《しずか》に青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶《めちょうおちょう》の長柄《ながえ》を取って、橘《たちばな》活《い》けた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。
 晴の装束は、お珊が金子《かね》に飽《あ》かして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。
 まず上席のお美津を謂《い》おう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が潰《つぶ》し島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬《ひぢりめん》のかけおろし。橘に実を抱かせた笄《こうがい》を両方に、雲井の薫《かおり》をたきしめた、烏帽子《えぼし》、狩衣《かりぎぬ》。朱総《しゅぶさ》の紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞《うすがすみ》、朱鷺色絹《ときいろぎぬ》に白い裏、膚《はだえ》の雪の紅《くれない》の襲《かさね》に透くよう媚《なまめ》かしく、白の紗《しゃ》の、その狩衣を装い澄まして、黒繻子《くろじゅす》の帯、箱文庫。
 含羞《はなじろ》む瞼《まぶた》を染めて、玉の項《うなじ》を差俯向《さしうつむ》く、ト見ると、雛鶴《ひなづる》一羽、松の羽衣|掻取《かいと》って、曙《あけぼの》の雲の上なる、宴《うたげ》に召さるる風情がある。
 同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏《おもぶせ》そうな、多一は浅葱紗《あさぎしゃ》の素袍《すおう》着て、白衣《びゃくえ》の袖を粛《つつ》ましやかに、膝に両手を差置いた。
 前なるお美津は、小鼓に八雲琴《やくもごと》、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵《きんまきえ》に銀鋲《ぎんびょう》打った欄干づき、輻《やぼね》も漆の車屋台に、前囃子《まえばやし》とて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。
 後囃子《あとばやし》が、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児《ちご》ばかり、すり鉦《がね》に太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。
 二人を前に、銚子《ちょうし》を控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊の装《よそおい》は、また立勝《たちまさ》って目覚しや。

       十九

 宝の市の屋台に付いて、市女《いちめ》また姫とも称《とな》うる十二人の美女が練る。……
 練衣《ねりぎぬ》小袿《こうちぎ》の紅《くれない》の袴《はかま》、とばかりでは言足らぬ。ただその上下《うえした》を装束《そうぞ》くにも、支度の夜は丑満《うしみつ》頃より、女紅場《じょこうば》に顔を揃えて一人々々|沐浴《ゆあみ》をするが、雪の膚《はだえ》も、白脛《しろはぎ》も、その湯は一人ずつ紅《べに》を流し、白粉《おしろい》を汲替《くみか》える。髪を洗い、櫛《くし》を入れ、丈より長く解捌《ときさば》いて、緑の雫《しずく》すらすらと、香枕《こうまくら》の香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結《もとゆい》に染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣《からごろも》を着け、袴を穿《は》くと、しらしらと早や旭《あさひ》の影が、霧を破って色を映す。
 さて住吉の朝ぼらけ、白妙《しろたえ》の松の樹《こ》の間を、静々と詣《もう》で進む、路の裳《もすそ》を、皐月御殿《さつきごてん》、市《いち》の式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……
 その市の姫十二人、御殿の正面に揖《ゆう》して出《い》づれば、神官、威儀正しく彼処《かしこ》にあり。土器《かわらけ》の神酒《みき》、結び昆布。やがて檜扇《ひおうぎ》を授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄《もえぎ》や、金銀の縫箔《ぬいはく》光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く梢《こずえ》を繞《めぐ》る松林《しょうりん》に日の射《さ》す中に、一列に並居《なみい》る時、巫子《みこ》するすると立出《たちい》でて、美女の面《おもて》一《いち》人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて黛《まゆずみ》を描く、と聞く。
 素顔の雪に化粧して、皓歯《しらは》に紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の沐浴《もくよく》に、美しき膚《はだ》を衆に抽《ぬ》き、解き揃えた黒髪は、夥間《なかま》の丈を圧《おさ》えたけれども、一人|渠《かれ》は、住吉の式に連《つらな》る事をしなかった。
 間際に人が欠けては事が済まぬ。
 世話人一同、袴腰を捻返《ねじかえ》して狼狽《うろた》えたが、お珊が思うままな金子《かね》の力で、身代りの婦《おんな》が急に立った。
 で、これのみ巫女《みこ》の手を借りぬ、容色《きりょう》も南地《なんち》第一人。袴の色の緋よりも冴えた、笹紅《ささべに》の口許《くちもと》に美しく微笑《ほほえ》んだ。
「多一さん、美津《みい》さん、ちょっと、どないな気がおしやす。」
 唐織衣《からおりごろも》に思いもよらぬ、生地《きじ》の芸妓《げいこ》で、心易げに、島台を前に、声を掛ける。
 素袍の紗《しゃ》に透通る、燈《ともし》の影に浅葱《あさぎ》とて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた面色《おももち》だった。
「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数を襲《かさ》ねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。
「御寮人様。」
 と手を下げて、
「何も、何も、私《わたくし》は申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、笞《しもと》の疵《きず》に、無慚《むざん》な繃帯《ほうたい》。
 お珊は黒目がちに、熟《じっ》と※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「ほんに、そう云うたら夢やな。」
 と清らかな襖《ふすま》のあたり、座敷を衝《つ》と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》した。
 ト柱、襖《ふすま》、その金屏風に、人の影が残らず映った。
 映って、そして、緋に、紫に、朱鷺色《ときいろ》に、二人の烏帽子、素袍、狩衣、彩《あや》あるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、一条《ひとすじ》長く、横雲掛けて見えたのである。

       二十

 時に、間《ま》を隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋と斉《ひと》しく、毛氈《もうせん》を聯《つら》ねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の稚児《ちご》が通り、前囃子《まえばやし》の屋台を挟《さしはさ》んで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、檜扇《ひおうぎ》取って練る約束の、我《おの》がお珊の、市随一の曠《はれ》の姿を見ようため、芸妓《げいこ》、幇間《たいこもち》をずらりと並べて、宵からここに座を構えた。
 が、その座敷もまだ寂寞《ひっそり》して、時々、階子段《はしごだん》、廊下などに、遠い跫音《あしおと》、近く床しき衣摺《きぬずれ》の音のみ聞ゆる。
 お珊は袖を開き、居直って、
「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」
 と、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]丈《ろうた》けた黛《まゆずみ》、恍惚《うっとり》と、多一の顔を瞻《みまも》りながら、
「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……三々九度《さかずき》やさかい、ああした我《わが》ままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、承合《うけお》うて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。
 美津《みい》さん、」
 と娘の前髪に、瞳を返して、
「不思議な御縁やな。ほほ、」
 手を口許に翳《かざ》したが、
「こう云うたかて、多一さんと貴女《あんた》とは、前世から約束したほど、深い交情《なか》でおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。
 思うてみれば、一昨日《おととい》の夜《よ》さり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会《じょうらくえ》にも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。
 一見《いちげん》でこうなった。
 貴女《あんた》な、ようこそ、芝居の裏で、お爺《じい》はんの肩|摺《さす》って上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条《ひとくさり》なと、可愛い可愛い女房《おかみ》はんに、沢山《たんと》芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取《くみと》って、鶉《うずら》へ嬉々《いそいそ》お帰りやした、貴女の優しい、仇気《あどけ》ない、可愛らしさも身に染みて。……
 私はな、丸官はんに、軋々《ぎしぎし》と……四角な天窓《あたま》乗せられて、鶉の仕切も拷問《ごうもん》の柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節《みふし》も弛《ゆる》んで、恍惚《うっとり》するまで視《なが》めていた。あの………扉《ひらき》の、お仕置場らしい青竹の矢来《やらい》の向うに……貴女等《あんたたち》の光景《ようす》をば。――
 悪事は虎の千里走る、好《い》い事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女《あんた》二人は孝行の徳、恋の功《てがら》、恩愛の報《むくい》だすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。
 逢阪に店がある、餅屋の評判のお娘《こ》さん、御両親《おふたおや》は、どちらも行方《ゆきがた》知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。
 天満の天神様へ行た、その帰途《かえり》に、つい虚気々々《うかうか》と、もう黄昏《たそがれ》やいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」
 と微笑みながら、二人を前に。
「多一さんが、使の間《ま》をちょっと逢いに寄って、町並|灯《あかり》の点《とも》された中に、その店だけは灯《ひ》もつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」

       二十一

 小指を外《そ》らして指の輪を、我目の
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