引緊《ひきしま》った身の、拍手《かしわで》も堅く附着《くッつい》たのが、このところまで退出《まかんで》て、やっと掌《たなそこ》の開くを覚えながら、岸に、そのお珊の彳《たたず》んだのを見たのであった。
 麩《ふ》でも投げたか、奴《やっこ》と二人で、同じ状《さま》に洋傘《こうもり》を傾けて、熟《じっ》と池の面《おも》を見入っている。
 初阪は、不思議な物語に伝える類《たぐい》の、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕《たちあらわ》れた、世にも凄《すご》いまで美しい婦《おんな》の手から、一通|玉章《たまずさ》を秘めた文箱《ふばこ》を託《ことずか》って来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人《たおやめ》が受取りに出たような気がしてならぬ。
 しかもそれは、途中|互《たがい》にもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑《いんしん》、心斎橋《しんさいばし》、高麗橋《こうらいばし》と相並ぶ、天満の町筋を徹《とお》してであるにもかかわらず、説き難き一種|寂寞《せきばく》の感が身に迫った。参詣群集《さんけいぐんじゅ》、隙間のない、宮、社《やしろ》の、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中《ひなか》は分けて見る事がおりおりある。
 ちょうど池の辺《ほとり》には、この時、他に人影も見えなかった。……
 橋の上に小児《こども》を連れた乳母が居たが、此方《こなた》から連立って、二人が行掛《ゆきかか》った機会《しお》に、
「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の方《かた》へ徐々《そろそろ》帰った。その状《さま》が、人間界へ立帰るごとくに見えた。
 池は小さくて、武蔵野の埴生《はにゅう》の小屋が今あらば、その潦《にわたずみ》ばかりだけれども、深翠《ふかみどり》に萌黄《もえぎ》を累《かさ》ねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ苔《こけ》滑《なめらか》。牡丹《ぼたん》を彫らぬ欄干も、巌《いわお》を削った趣《おもむき》がある。あまつさえ、水底《みなぞこ》に主《ぬし》が棲《す》む……その逸するのを封ずるために、雲に結《ゆわ》えて鉄《くろがね》の網を張り詰めたように、百千の細《こまか》な影が、漣《ささなみ》立《た》って、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満《みちみち》た亀なのであった。
 枯蓮《かれはす》もばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄《いおう》ヶ島の赤蜻蛉《あかとんぼ》。
 鯡鯉《ひごい》の背は飜々《ひらひら》と、お珊の裳《もすそ》の影に靡《なび》く。
 居たのは、つい、橋の其方《そなた》であった。
 半襟は、黒に、蘆《あし》の穂が幽《かすか》に白い、紺地《こんのじ》によりがらみの細い格子、お召縮緬《めしちりめん》の一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。
 髪の艶《つや》も、色の白さも、そのために一際目立つ、――糸織か、一楽《いちらく》らしいくすんだ中に、晃々《きらきら》と冴《さ》えがある、きっぱりした地の藍鼠《あいねずみ》に、小豆色《あずきいろ》と茶と紺と、すらすらと色の通った縞《しま》の乱立《らんたつ》。
 蒼空《あおぞら》の澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅《くれない》に、茶は萌黄《もえぎ》に、紺は紫の隈《くま》を染めて、明《あかる》い中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年|古《ふ》る池に、ただその、すらりと雪を束《つか》ねたのに、霧ながら木《こ》の葉に綾《あや》なす、虹《にじ》を取って、細く滑《なめら》かに美しく、肩に掛けて背に捌《さば》き、腰に流したようである。汀《みぎわ》は水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。
 光線は白かった。

       十六

 その艶《えん》なのが、女《め》の童《わらわ》を従えた風で、奴《やっこ》と彳《たたず》む。……汀に寄って……流木《ながれぎ》めいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗《こけまみ》れに生簀《いけす》の蓋《ふた》のように見えるのがあった。日は水を劃《くぎ》って、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。
 それへ、ほかほかと甲《こうら》を干した、木《こ》の葉に交って青銭の散った状《さま》して、大小の亀は十《と》ウ二十、磧《かわら》の石の数々居た。中には軽石のごときが交って。――
 いずれ一度は擒《とりこ》となって、供養にとて放された、が狭い池で、昔|売買《うりかい》をされたという黒奴《くろんぼ》の男女《なんにょ》を思出させる。島、海、沢、藪《やぶ》をかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜《やみ》には潜《ひそ》んで、ひそひそと身の上話がはじまろう。
 故郷《ふるさと》なる、何を見るやら、向《むき》は違っても一つ一つ、首を据えて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。が、人も、もの言わず、活《いき》ものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽《かすか》に、えへん、と咳払《せきばらい》をしそうで寂《さみ》しい。
 一頭《ひとつ》、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反《そ》って、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉《ひと》しく、絹糸の虹を視《なが》めたに違いない。
「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」
 男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭《もた》れて低声《こごえ》で云う。あえて忍音《しのびね》には及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、直《じか》に話すほど、間近な人に皆聞える。
「まったく、魚《うお》じゃ鯔《ぼら》の面色《かおつき》が瓜二つだよ。」
 その何に似ているかは言わずとも知れよう。
「ああああ、板の下から潜出《もぐりだ》して、一つ水の中から顕《あらわ》れたのがあります。大分大きゅうがすせ。」
 成程、たらたらと漆《うるし》のような腹を正的《まとも》に、甲《こうら》に濡色の薄紅《うすべに》をさしたのが、仰向《あおむ》けに鰓《あぎと》を此方《こなた》へ、むっくりとして、そして頭の尖《さき》に黄色く輪取った、その目が凸《なかだか》にくるりと見えて、鱗《うろこ》のざらめく蒼味《あおみ》がかった手を、ト板の縁《ふち》へ突張《つッぱ》って、水から半分ぬい、と出た。
「大将、甲羅《こうら》干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」
 と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。
 が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。
「今度は乗るぜ。」
 やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張《ふんば》った。が、力足らず、乗出した勢《いきおい》が余って、取外ずすと、ずんと沈む。
「や、不可《いけな》い。」
 たちまち猛然としてまた浮いた。
 で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上《のしあ》げる。
「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷《すべ》った。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。
 汀のお珊は、褄《つま》をすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田《やっこしまだ》は、洋傘《こうもり》を畳んで支《つ》いて、直ぐ目の下を、前髪に手庇《てびさし》して覗込《のぞきこ》む。
 この度は、場処を替えようとするらしい。
 斜《ななめ》に甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹《さお》で操るがごとくになって、夥多《あまた》の可《いい》心持に乾いた亀の子を、カラカラと載《の》せたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟《じっ》として嚔《くしゃみ》したもの一つない。
 板の一方は細いのである。
 そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込《かかえこ》めそうに見えた。
 いや、困った事は、重量《おもみ》に圧《お》されて、板が引傾《ひっかたむ》いたために、だふん、と潜る。
「ほい、しまった。いや、串戯《じょうだん》じゃない。しっかり頼むぜ。」
 と、男衆は欄干をトントン叩く。
 あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛《かか》った。と思うと、ずぼりと出る。
「蛙《かわず》だと青柳硯《あおやぎすずり》と云うんです。」
「まったくさ。」

       十七

 けれども、その時もし遂げなかった。
「ああ、惜《おし》い。」
 男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。
「執念深いもんですね。」
「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」
 と言う間もなかった。
 この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺《ゆら》ぐばかり力が入って、その手を扁平《ひらた》く板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。
「ははあ、考えた。」
「あいつを力に取って伸上《のしあが》るんです、や、や、どッこい。やれ情《なさけ》ない。」
 ざぶりと他愛《たわい》なく、またもや沈む。
 男衆が時計を視《み》た。
「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々《そろそろ》帰りましょう。」
「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」
「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛《かか》るかも知れませんから。」
「妙に残惜《のこりおし》いようだよ。」
 男衆は、汀《みぎわ》の婦《おんな》にちょいと目を遣って、密《そっ》と片頬笑《かたほおえみ》して声を潜《ひそ》めた。
「串戯《じょうだん》じゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄《うっす》りと美しい五色の霧が、冷々《ひやひや》と掛《かか》るようです。……変に凄《すご》いようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会《はずみ》に、黒雲を捲起《まきおこ》して、震動雷電……」
「さあ、出掛けよう。」
 二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央《なかば》から取って返す。
 やがて、渡果《わたりは》てようとした時である。
「ちょっと、ちょっと。」
 と背後《うしろ》から、優《やさし》いが張《はり》のある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細《しさい》なしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。
 袖を合せて、前後《あとさき》に、ト斉《ひと》しく振返ると、洋傘《こうもり》は畳んで、それは奴《やっこ》に持たした。縺毛《もつれげ》一条《ひとすじ》もない黒髪は、取って捌《さば》いたかと思うばかり、痩《やせ》ぎすな、透通るような頬を包んで、正面《まとも》に顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉《のど》が細かった。
「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。
 奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。
「そうどす。」と判然《はっきり》云って莞爾《にっこり》する、瞼《まぶた》に薄く色が染まって、類《たぐい》なき紅葉《もみじ》の中の俤《おもかげ》である。
「一遍お待ちやす……思《おもい》を遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。私《あて》が手伝うさかいな。」
 猶予《ためら》いあえず、バチンと蓮《はす》の果《み》の飛ぶ音が響いた。お珊は帯留《おびどめ》の黄金《きん》金具、緑の照々《きらきら》と輝く玉を、烏羽玉《うばたま》の夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染《ゆうぜん》を柔《やわらか》な膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て――あたかも腹を空に突張《つッぱ》ってにょいと上げた、藻を押分けた――亀の手に、縋《すが》れよ、引かむ、とすらりと投げた。
 帯留は、銀《しろがね》の曇ったような打紐《うちひも》と見えた。
 その尖《さき》は水に潜《くぐ》って、亀の子は、ばくりと紐を噛《か》む、ト袖口を軽く袂《たもと》を絞った、小腕《こかいな》白く雪を伸べた。が、重量《おもみ》がかかるか、引く手に幽《かすか》に脈を打つ。その二の腕、顔、襟、頸《うなじ》、膚《はだ》に白い処は云うまでもない、袖、褄《つま》の、艶《えん》に
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