もと》のごとし。……
 真中《まんなか》へ挟《はさま》った私を御覧。美しい絹糸で、身体《からだ》中かがられる、何だか擽《くすぐった》い気持に胸が緊《しま》って、妙に窮屈な事といったらない。
 狂犬《やまいぬ》がむっくり、鼻息を吹直した。
(柿があるか、剥《む》けやい、)と涎《よだれ》で滑々《ぬらぬら》した口を切って、絹も膚《はだ》にくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤《まっか》な目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》くと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(何《なん》しとる? 汝《わり》ゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。
(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定|欲《ほし》い、と取りに来た金子《かね》なら、払うてやるは知れた事や。何|吐《ぬか》す。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで敲《たた》きつけろ、と番頭にそう吐《ぬ》かせ。)
(はい、)と、手を支《つ》く。
(さっさと去《い》ね、こない場所へのこのこと面出しおって、何《なん》さらす、去ねやい。)
(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を揉《も》みながら、手代が立って、五足ばかり行《ゆ》きかかると、
(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。
(待てい、)と云う。はっと引返して、また手を支《つ》くと、婦《おんな》の膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子《かね》くれい、と使が来て店で待つじゃな。人|寄越《よこ》いたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」
「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」
「そうかね、(丸官は催促されて金子《かね》出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒《げいこてあい》の顔をずらりと見渡すと、例の凄《すご》いので嘲笑《あざわら》って、軍鶏《しゃも》が蹴《け》つけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人|剥《む》いていた柿を引手繰《ひったく》る、と仕切に肱《ひじ》を立てて、頤《あご》を、新高《しんたか》に居るどこかの島田|髷《まげ》の上に突出して、丸噛《まるかじ》りに、ぼりぼりと喰《くい》かきながら、(留《や》めちまえ、)と舞台へ喚《わめ》く。
 御寮人は、ぞろりと褄《つま》を引合せる。多一は、その袖の蔭に、踞《うずくま》っていたんだね。
 するとね、くいほじった柿の核《たね》を、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。
(鉄砲|打《ぶ》て、戦争|押始《おっぱじ》めろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、尖《とが》った顔をして、じろりと多一を睨《にら》みつけた。
(何しとる、うむ、)と押潰《おしつぶ》すように云います。
(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行《ある》き出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。
(丁稚々々《でっちでっち》、)と今度は云うのさ。」
 聞く男衆は歎息した。
「難物ですなあ。」

       十三

「それからの狂犬《やまいぬ》が、条理《すじ》違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。
(汝《わり》ゃ、はいはいで、用を済まいた顔色《がんしょく》で、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が吩咐《いいつ》けたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子《かね》を払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と大《おおき》な声して、(端金子《はしたがね》、)で、底力を入れて塗《なす》りつけるように声を密《ひそ》めて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ! 大白痴《おおたわけ》、その位な事が分らんか。)
 で、また追立《おった》てて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。
(分ったか、何、分った、偉い! 出来《でか》す、)と云ってね、ふふん、と例の厭《いや》な笑方《わらいかた》をして、それ、直ぐに芸妓連《げいこれん》の顔をぎょろり。
(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌《しゃべ》れ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向《あおむ》けに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管《きんぎせる》を握って、立続けに、ふかふか吹かす。
(判然《はっきり》言え、判然、ちゃんと口上をもって吐《ぬ》かせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子《かね》を払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と可恐《おそろし》い顔になった。(誰が?)と吠《ほ》えるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!
 丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに揺《ゆす》り上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い奴《やち》や。主人のものだとたかを括《くく》って、大金を何の糟《かす》とも思いくさらん、乞食を忘れたか。)
 と言う。
 目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退《すさ》って廊下へ手を支《つ》くと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、汝《わり》ゃ動くな。)とまた柿を引手繰《ひったく》って、かツかツと喰いかきながら、(止《や》めちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。
(旦那様、旦那様、)多一が震声《ふるえごえ》で呼んだと思え。
(早いな、汝《われ》がような下根《げこん》な奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処《たちどころ》は偉い。俺《おれ》を呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美《ほうび》を遣る。そりゃ頂け、)と柿の蔕《へた》を、色白な多一の頬へたたきつけた。
(もし、御寮人様、)と熟《じっ》と顔を見て、(どうしましたら宜《よろ》しいのでございましょう、)と縋《すが》るようにして言ったか言わぬに、(猿曳《さるひき》め、汝《われ》ゃ、婦《おんな》に、……畜生、)と喚《わめ》くが疾《はや》いか、伸掛《のしかか》って、ピシリと雁首《がんくび》で額を打《ぶ》ったよ。羅宇《らう》が真中《まんなか》から折れた。
 こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。
 芸妓達も一時《いっとき》に振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が圧《おさ》えた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子《ようす》には弱ったね。おまけに知らない振《ふり》をして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。
 私は、ふいと立って、部屋へ帰った。
 傍《そば》に居ちゃ、もうこっちが撮出《つまみだ》されるまでも、横面《よこつら》一ツ打挫《うちひしゃ》がなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合《とっくみあ》った、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。
 頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。
 その婦《おんな》だ、呆れたぐうたらだと思ったが、」
「もし、もし、」
 と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。

       十四

 歩行《ある》くともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直《まっすぐ》に見渡す。――狭いが、群集《ぐんじゅ》の夥《おびただ》しい町筋を、斜めに奴《やっこ》を連れて帰る――二個《ふたつ》、前後《あとさき》にすっと並んだ薄色の洋傘《こうもり》は、大輪の芙蓉《ふよう》の太陽《ひ》を浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。
 水打った地《つち》に、裳《もすそ》の綾《あや》の影も射《さ》す、色は四辺《あたり》を払ったのである。
「やあ、居る……」
 と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、累《かさな》り合って露店もあり。軒にも、路にも、透間《すきま》のない人立《ひとだち》したが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見|赤毛布《あかげっと》のその風采《ふう》で、慌《あわただ》しく(居る、)と云えば、件《くだん》の婦《おんな》に吃驚《びっくり》した事は、往来《ゆきき》の人の、近間なのには残らず分った。
 意気な案内者|大《おおい》に弱って、
「驚いては不可《いけ》ません。天満の青物市です。……それ、真正面《まっしょうめん》に、御鳥居を御覧なさい。」
 はじめて心付くと、先刻《さっき》視《なが》めた城に対して、稜威《みいず》は高し、宮居《みやい》の屋根。雲に連なる甍《いらか》の棟は、玉を刻んだ峰である。
 向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽《ひおおい》の葭簀《よしず》を払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も婦《おんな》も、折から市人《いちびと》の服装《なり》は皆黒いのに、一ツ鮮麗《あざやか》に行《ゆ》く美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。
「音に聞いた天満の市へ、突然《いきなり》入ったから驚いたんです。」
「そうでしょう。」
 擦違《すれちが》った人は、初阪《もの》の顔を見て皆|笑《わらい》を含む。
 両人《ふたり》は苦笑した。
「ほっこり、暖《あったか》い、暖い。」
 蒸芋《ふかしいも》の湯気の中に、紺の鯉口《こいぐち》した女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。
「おでんや、おでん!」
「饂飩《うどん》あがんなはらんか、饂飩。」
「煎餅《せんべい》買いなはれ、買いなはれ。」
 鮨《すし》の香気《かおり》が芬《ぷん》として、あるが中に、硝子戸越《ガラスどごし》[#「硝子戸越」は底本では「硝戸戸越」]の紅《くれない》は、住吉の浦の鯛、淡路島の蝦《えび》であろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の蕪《かぶら》と見た。……頬被《ほおかむり》したお百姓、空籠《からかご》荷《にの》うて行違《ゆきちが》う。
 軒より高い競売《せり》もある。
 傘《からかさ》さした飴屋《あめや》の前で、奥深い白木の階《きざはし》に、二人まず、帽子を手に取った時であった。――前途《ゆくて》へ、今大鳥居を潜《くぐ》るよと見た、見る目も彩《あや》な、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病《きやみ》の床を小春日和《こはるびより》に、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯《しごき》で褄《つま》取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々《しずしず》と拾ったのが、たちまち電《いなずま》のごとく、颯《さっ》と、照々《てらてら》とある円柱《まるばしら》に影を残して、鳥居際から衝《つ》と左へ切れた。
 が、目にも留まらぬばかり、掻消《かきけ》すがごとくに見えなくなった。
 高く競売屋《せりうりや》が居る、古いが、黒くがっしりした屋根|越《ごし》の其方《そなた》の空、一点の雲もなく、冴《さ》えた水色の隈《くま》なき中に、浅葱《あさぎ》や、樺《かば》や、朱や、青や、色づき初《そ》めた銀杏の梢《こずえ》に、風の戦《そよ》ぐ、と視《なが》めたのは、皆見世ものの立幟《たてのぼり》。
 太鼓に、鉦《かね》に、ひしひしと、打寄する跫音《あしおと》の、遠巻きめいて、遥《はるか》に淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数《にんず》。お珊も暮るれば練るという、宝の市の夜《よ》をかけた、大阪中の賑《にぎわ》いである。

       十五

「御覧なさい、これが亀の池です。」
 と云う、男衆の目は、――ここに人を渡すために架《か》けたと云うより、築山《つきやま》の景色に刻んだような、天満宮《てんまんぐう》の境内を左へ入って、池を渡る橋の上で――池は視《み》ないで、向う岸へ外《そ》れた。
 階《きざはし》を昇って跪《ひざまず》いた時、言い知らぬ神霊に、
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