ひらき》をツイと押して、出て来て、小さくなって、背後《うしろ》の廊下、お極《きま》りだ、この処へ立つ事無用。あすこへ顔だけ出して踞《しゃが》んだもんです。(旦那、この娘《こ》を一人願われませんでござりましょうか。内々《うちうち》のもので、客ではござりません。お部屋へ知れますと悪うござりますが、貴下様《あなたさま》思召《おぼしめし》で、)と至って慇懃《いんぎん》です。
 資本《もとで》は懸《かか》らず、こういう時、おのぼりの気前を見せるんだ、と思ったから、さあさあ御遠慮なく、で、まず引受けたんだね。」

       七

「ずっと前へお出なさい、と云って勧めても、隅の口に遠慮して、膝に両袖を重ねて、溢《こぼ》れる八ツ口の、綺麗な友染《ゆうぜん》を、袂《たもと》へ、手と一所に推込《おしこ》んで、肩を落して坐っていたがね、……可愛らしいじゃないか。赤い紐《ひも》を緊《し》めて、雪輪に紅梅模様の前垂《まえだれ》がけです。
 それでも、幕が開いて芝居に身が入《い》って来ると、身体《からだ》をもじもじ、膝を立てて伸上って――背後《うしろ》に引込《ひっこ》んでいるんだから見辛いさね――そうしちゃ、舞台を覗込《のぞきこ》むようにしていたっけ。つい、知らず知らず乗出して、仕切にひったりと胸を附けると、人いきれに、ほんのりと瞼《まぶた》を染めて、ほっとなったのが、景気提灯《けいきぢょうちん》の下で、こう、私とまず顔を並べた。おのぼり心の中《うち》に惟《おも》えらく、光栄なるかな。
 まあ、お聞きったら。
 そりゃ可《よ》かったが、一件だ。」
「一件と……おっしゃると?」
「長いの、長いの。」
「その娘《こ》が、蛇を……嘘でしょう。」
「間違ったに違いない。けれども高津で聞いて、平家の水鳥で居たんだからね。幕間《まくあい》にちょいと楽屋へ立違って、またもとの所へ入ろうとすると、その娘の袂《たもと》の傍《わき》に、紙袋《かんぶくろ》[#「紙袋」は底本では「紙装」]が一つ出ています。
 並んで坐ると、それがちょうど膝になろうというんだから、大《おおい》に怯《ひる》んだ。どうやら気のせいか、むくむく動きそうに見えるじゃないか。
 で、私は後へ引退《ひききが》った。ト娘の挿した簪《かんざし》のひらひらする、美しい総《ふさ》越しに舞台の見えるのが、花輪で額縁を取ったようで、それも可《よし》さ。
 所へ、さらさらどかどかです。荒いのと柔《やわらか》なのと、急ぐのと、入乱れた跫音《あしあと》を立てて、七八人。小袖幕で囲ったような婦《おんな》の中から、赫《かっ》と真赤《まっか》な顔をして、痩《や》せた酒顛童子《しゅてんどうじ》という、三分刈りの頭で、頬骨の張った、目のぎょろりとした、なぜか額の暗い、殺気立った男が、詰襟の紺の洋服で、靴足袋を長く露《あらわ》した服筒《ずぼん》を膝頭《ひざがしら》にたくし上げた、という妙な扮装《なり》で、その婦《おんな》たち、鈍太郎殿の手車から転がり出したように、ぬっと発奮《はず》んで出て、どしんと、音を立てて躍込《おどりこ》んだのが、隣の桟敷で……
 唐突《いきなり》、横のめりに両足を投出すと、痛いほど、前の仕切にがんと支《つ》いた肱《ひじ》へ、頭を乗せて、自分で頸《くび》を掴《つか》んでも、そのまま仰向《あおむ》けにぐたりとなる、可《い》いかね。
 顔へ花火のように提灯の色がぶツかります。天井と舞台を等分に睨《にら》み着けて、(何じゃい!)と一つ怒鳴《どな》る、と思うと、かっと云う大酒の息を吐きながら、(こら、入らんか、)と喚《わめ》いたんだ。
 背後《うしろ》に、島田やら、銀杏返《いちょうがえ》しやら、累《かさな》って立った徒《てあい》は、右の旦那よりか、その騒ぎだから、皆《みんな》が見返る、見物の方へ気を兼ねたらしく、顔を見合わせていたっけが。
 この一喝を啖《くら》うと、べたべたと、蹴出《けだ》しも袖も崩れて坐った。
 大切な客と見えて、若衆《わかいしゅ》が一人、女中が二人、前茶屋のだろう、附いて来た。人数《にんず》は六人だったがね。旦那が一杯にのしてるから、どうして入り切れるもんじゃない。随分|肥《ふと》ったのも、一人ならずさ。
 茶屋のがしきりに、小声で詫《わび》を云って叩頭《おじぎ》をしたのは、御威勢でもこの外に場所は取れません、と詫びたんだろう。(構いまへんで、お入りなされ。)
 まずい口真似だ、」
 初阪は男衆の顔を見て微笑《ほほえ》んだが、
「そう云って、茶屋の男が、私に言《ことば》も掛けないで、その中でも、なかんずく臀《しり》の大きな大年増を一人、こっちの場所へ送込んだ。するとまたその婦《おんな》が、や、どッこいしょ、と掛声して、澄まして、ぬっと入って、ふわりと裾埃《すそごみ》で前へ出て、正面|充満《いっぱい》に陣取ったろう。」

       八

「娘はこの肥満女《ふとっちょ》に、のしのし隅っこへ推着《おッつ》けられて、可恐《おそろ》しく見勝手が悪くなった。ああ、可哀そうにと思う。ちょうど、その身体《からだ》が、舞台と私との中垣になったもんだからね。可憐《いじら》しいじゃないか……
 密《そっ》と横顔で振向いて、俯目《ふしめ》になって、(貴下《あんた》はん、見憎うおますやろ、)と云って、極《きま》りの悪そうに目をぱちぱちと瞬いたんです。何事も思いません。大阪中の詫言《わびごと》を一人でされた気がしたぜ。」
 男衆は頭《つむり》を下げた。
「御道理《ごもっとも》で。」
「いや、まったく。心配しないで楽に居て、御覧々々と重ねて云うと、芝居で泣いたなりのしっとりした眉《まみえ》を、嬉しそうに莞爾《にっこり》して、向うを向いたが、ちょっと白い指で圧《おさ》えながら、その花簪《はなかんざし》を抜いたはどうだい。染分《そめわけ》の総《ふさ》だけも、目障りになるまいという、しおらしいんだね。
(酒だ、酒だ。疾《はや》くせい、のろま!)とぎっくり、と胸を張反《はりそ》らして、目を剥《む》く。こいつが、どろんと濁って血走ってら。ぐしゃぐしゃ見上げ皺《しわ》が揉上《もみあが》って筋だらけ。その癖、すぺりと髯《ひげ》のない、まだ三十くらい、若いんです。
(はいはい、たった今、直《じ》きに、)とひょこひょこと敷居に擦附ける、若衆は叩頭《おじぎ》をしいしい、(御寮人様、行届きまへん処は、何分、)と、こう内証で云った。
 その御寮人と云われた、……旦那の背後《うしろ》に、……髪はやっぱり銀杏返しだっけ……お召の半コオトを着たなりで控えたのが、」
「へい、成程、背後《うしろ》に居ました。」
「お珊の方《かた》かね、天満橋で見た先刻《さっき》のだ。もっとも東の雛壇《ひなだん》をずらりと通して、柳桜が、色と姿を競った中にも、ちょっとはあるまいと思う、容色《きりょう》は容色と見たけれども、歯痒《はがゆ》いほど意気地《いくじ》のない、何て腑《ふ》の抜けた、と今日より十段も見劣りがしたって訳は。……
 いずれ妾《めかけ》だろう。慰まれものには違いないが、若い衆も、(御寮人、)と奉って、何分、旦那を頼む、と云う。
 取巻きの芸妓《げいしゃ》たち、三人五人の手前もある。やけに土砂を振掛けても、突張《つッぱり》返った洋服の亡者|一個《ひとり》、掌《てのひら》に引丸《ひんまろ》げて、捌《さばき》を附けなけりゃ立ちますまい。
 ところが不可《いけな》い。その騒ぐ事、暴れる事、桟敷へ狼を飼ったようです。(泣くな、わい等、)と喚《わめ》く――君の親方が立女形《たておやま》で満場水を打ったよう、千百の見物が、目も口も頭も肩も、幅の広いただ一|人《にん》の形になって、啜泣《すすりな》きの声ばかり、誰が持った手巾《ハンケチ》も、夜会草の花を昼間見るように、ぐっしょり萎《しぼ》んで、火影の映るのが血を絞るような処だっけ――(芝居を見て泣く奴があるものかい、や、怪体《けたい》な!
 舞台でも何を泣《ほ》えくさるんじゃい。かッと喧嘩《けんか》を遣れ、面白うないぞ! 打殺《たたきころ》して見せてくれ。やい、腸《はらわた》を掴出《つかみだ》せ、へん、馬鹿な、)とニヤリと笑う。いや、そのね、ニヤリと北叟笑《ほくそえ》みをする凄《すご》さと云ったら。……待てよ、この御寮人が内証《ないしょ》で情人《いろ》をこしらえる。嫉妬《しっと》でその妾の腸《はらわた》を引摺《ひきず》り出す時、きっと、そんな笑い方をする男に相違ないと思った。
 可哀《あわれ》を留《とど》めたのは取巻連さ。
 夢中になって、芝居を見ながら、旦那が喚《わめ》くたびに、はっとするそうで、皆《みんな》が申合わせた形で、ふらりと手を挙げる。……片手をだよ。……こりゃ、私の前を塞《ふさ》いだ肥満女《ふとっちょ》も同じく遣った。
 その癖、黙然《だんまり》でね、チトもしお静《しずか》に、とも言い得ない。
 すると、旦那です……(馬鹿め、止《や》めちまえ、)と言いながら、片手づきの反身《そりみ》の肩を、御寮人さ、そのお珊の方の胸の処へ突《つき》つけて、ぐたりとなった。……右の片手を逆に伸して、引合せたコオトの襟を引掴《ひッつか》んで、何か、自分の胸が窮屈そうに、こう※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて、引開《ひっぱだ》けようとしたんだがね、思う通りにならなかったもんだから、(ええ)と云うと、かと開《はだ》けた、細い黄金鎖《きんぐさり》が晃然《きらり》と光る。帯を掴んで、ぐい、と引いて、婦《おんな》の膝を、洋服の尻へ掻込《かいこ》んだりと思うと、もろに凭懸《もたれかか》った奴が、ずるずると辷《すべ》って、それなり真仰向《まあおむ》けさ。傍若無人だ。」

       九

「膝枕をしたもんです。その野分《のわき》に、衣紋《えもん》が崩れて、褄《つま》が乱れた。旦那の頭は下掻《したがい》の褄を裂いた体《てい》に、紅入友染《べにいりゆうぜん》の、膝の長襦袢《ながじゅばん》にのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。
 大蛇のような鼾《いびき》を掻《か》く。……妾《めかけ》はいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。
 江戸児《えどっこ》だと、見たが可い! 野郎がそんな不状《ぶざま》をすると、それが情人《いろ》なら簪《かんざし》でも刺殺す……金子《かね》で売った身体《からだ》だったら、思切って、衝《つっ》と立って、袖を払って帰るんだ。
 処を、どうです。それなりに身を任せて、静《じっ》として、しかも入身《いれみ》に娜々《なよなよ》としているじゃないか。
 掴寄《つかみよ》せられた帯も弛《ゆる》んで、結び目のずるりと下った、扱帯《しごき》の浅葱《あさぎ》は冷たそうに、提灯の明《あかり》を引いて、寂しく婦《おんな》の姿を庇《かば》う。それがせめてもの思遣《おもいや》りに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、青光《あおびかり》のする腸《はらわた》のように見えて、あわれに無慚《むざん》な光景《ようす》だっけ。」
「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜか腑《ふ》に落ちぬらしく聞えたのである。
「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を緊《し》めた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯《しごき》が鎌首を擡《もた》げりゃ可《よ》かったのにさ。」
「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、葵《あおい》の上などという執着《しゅうぢゃく》の深いものは、立方《たちかた》禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある婦《おんな》ですが……金子《かね》の力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」
「気の毒だね。」
「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧《ざんまい》、我儘《わがまま》を、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」
「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるよ
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング