る艶婦《えんぷ》の裸身である。
旅の袖を、直ちに蝶の翼に開いて――狐が憑《つ》いたと人さえ見なければ――もっとも四辺《あたり》に人影もなかったが――ふわりと飛んで、花を吸おうとも、莟を抱こうとも、心のままに思われた。
それだのに、十歩……いや、もっと十間ばかり隔たった処に、銑吉が立停《たちど》まったのは、花の莟を、蓑毛《みのけ》に被《かつ》いだ、舞の烏帽子《えぼし》のように翳《かざ》して、葉の裏すく水の影に、白鷺が一羽、婀娜《あだ》に、すっきりと羽を休めていたからである。
ここに一筋の小川が流れる。三尺ばかり、細いが水は清く澄み、瀬は立ちながら、悠揚として、さらさらと聞くほどの音もしない。山入《やまいり》の水源は深く沈んだ池沼《ちしょう》であろう。湖と言い、滝と聞けば、末の流《ながれ》のかくまで静《しずか》なことはあるまいと思う。たとい地理にしていかなりとも。
――松島の道では、鼓草《たんぽぽ》をつむ道草をも、溝を跨《また》いで越えたと思う。ここの水は、牡丹の叢《むら》のうしろを流れて、山の根に添って荒れた麦畑の前を行き、一方は、角《つの》ぐむ蘆《あし》、茅の芽の漂う水田であった。
道を挟んで、牡丹と相向う処に、亜鉛《トタン》と柿《こけら》の継はぎなのが、ともに腐れ、屋根が落ち、柱の倒れた、以前掛茶屋か、中食《ちゅうじき》であったらしい伏屋の残骸《ざんがい》が、蓬《よもぎ》の裡《なか》にのめっていた。あるいは、足休めの客の愛想に、道の対《むこ》う側を花畑にしていたものかも知れない。流転のあとと、栄花の夢、軒は枯骨のごとく朽ちて、牡丹の膚《はだ》は鮮紅である。
古蓑《ふるみの》が案山子《かかし》になれば、茶店の骸骨も花守をしていよう。煙は立たぬが、根太を埋めた夏草の露は乾かぬ。その草の中を、あたかも、ひらひら、と、ものの現《うつつ》のように、いま生れたらしい蜻蛉《とんぼ》が、群青《ぐんじょう》の絹糸に、薄浅葱《うすあさぎ》の結び玉を目にして、綾の白銀《しろがね》の羅《うすもの》を翼に縫い、ひらひら、と流《ながれ》の方へ、葉うつりを低くして、牡丹に誘われたように、道を伝った。
またあまりに儚《はかな》い。土に映る影もない。が、その影でさえ、触ったら、毒気でたちまち落ちたろう。――畷道《なわてみち》の真中《まんなか》に、別に、凄《すさま》じい虫が居た。
しかも、こっちを、銑吉の方を向いて、髯《ひげ》をぴちぴちと動かす。一疋七八分にして、躯《み》は寸に足りない。けれども、羽に碧緑《あおみどり》の艶《つや》濃く、赤と黄の斑《ふ》を飾って、腹に光のある虫だから、留った土が砥《と》になって、磨いたように燦然《さんぜん》とする。葛上亭長《まめ》、芫青《あお》、地胆《つち》、三種合わせた、猛毒、膚《はだえ》に粟《あわ》すべき斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]《はんみょう》の中《うち》の、最も普通な、みちおしえ、魔の憑《つ》いた宝石のように、※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]燿《ぎらぎら》と招いていた。
「――こっちを襲って来るのではない。そこは自然の配剤だね。人が進めば、ひょいと五六尺|退《しさ》って、そこで、また、おいでおいでをしているんだ。碧緑赤黄の色で誘うのか知らん。」
蜻蛉では勿論ない。それを狙っているらしい。白鷺が、翼を開くまでもなかった。牡丹の花の影を、きれいな水から、すっと出て、斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]の前へ行《ゆ》くと思うと、約束通り、前途《むこう》へ退《さが》った。人間に対すると、その挙動は同一《おんなじ》らしい。……白鷺が再び、すっと進む。
あの歩《あし》の運びは、小股《こまた》がきれて、意気に見える。斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]は、また飛びしさった。白鷺が道の中を。……
――きみ、――きみ――
「うっかり声を出して呼んだんだよ、つい。……毒虫だ、大毒だ。きみ、哺《くわ》えてはいけないと。あの毒は大変です、その卵のくッついた野菜を食べると、血を吐いて即死だそうだ。
現に、私がね、ただ、触られてかぶれたばかりだが。
北国《ほっこく》の秋の祭――十月です。半ば頃、その祭に呼ばれて親類へ行った。
白山宮《はくさんぐう》の境内、大きな手水鉢《ちょうずばち》のわきで、人ごみの中だったが、山の方から、颯《さっ》と虫が来て頬へとまった。指のさきで払い落したあとが、むずむずと痒《かゆ》いんだね。
御手洗《みたらし》は清くて冷い、すぐ洗えばだったけれども、神様の助けです。手も清め、口もそそぐ。……あの手をいきなり突込《つっこ》んだらどのくらい人を損《そこな》ったろう。――たとい殺さないまでもと思うと、今でも身の毛が立つほどだ。ほてって、顔が二つになったほど幅ったく重い。やあ、獅子《しし》のような面《つら》だ、鬼の面《めん》だ、と小児《こども》たちに囃《はや》されて、泣いたり怒ったり。それでも遊びにほうけていると、清らかな、上品な、お神巫《みこ》かと思う、色の白い、紅《もみ》の袴《はかま》のお嬢さんが、祭の露店に売っている……山葡萄《やまぶどう》の、黒いほどな紫の実を下すって――お帰んなさい、水で冷すのですよ。
――で、駆戻ると、さきの親類では吃驚《びっくり》して、頭を冷して寝かしたんだがね。客が揃って、おやじ……私の父が来たので、御馳走《ごちそう》の膳《ぜん》の並んだ隣へ出て坐った処、そこらを視《み》て、しばらくして、内の小僧は?……と聞くんだね。袖の中の子が分らないほど、面《つら》が鬼になっていたんです。おやじの顔色が変ると、私も泣出した。あとをよくは覚えていないんだが、その山葡萄を雫《しずく》にして、塗ったり吸ったりして無事に治った……虫は斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]だった事はいうまでもないのです。」
「何と、はあ、おっかねえもんだ、なす。知らねえ虫じゃねえでがすが、……もっとも、あの、みちおしえは、誰も触らねえ事にしてあるにはあるだよ。」
「だから、つい、声も掛けようではないか。」
「鷺の鳥はどうしただね。」
「お爺さん、それは見ていなかったかい。」
「なまけもんだ、陽気のよさに、あとはすぐとろとろだ。あの潰屋《つぶれや》の陰に寝ころばっておったもんだでの。」
白鷺はやがて羽を開いた。飛ぶと、宙を翔《かけ》る威力には、とび退《しさ》る虫が嘴《くちばし》に消えた。雪の蓑毛《みのけ》を爽《さわやか》に、もとの流《ながれ》の上に帰ったのは、あと口に水を含んだのであろうも知れない。諸羽《もろはね》を搏《う》つと、ひらりと舞上る時、緋牡丹の花の影が、雪の頸《うなじ》に、ぼっと沁《し》みて薄紅《うすくれない》がさした。そのまま山の端《は》を、高く森の梢《こずえ》にかくれたのであった。
「あの様子では確《たしか》に呑んだよ、どうも殺《や》られたろうと思うがね。」
爺《じい》は股引《ももひき》の膝を居直って、自信がありそうに云った。
「うんや、鳥は悧巧《りこう》だで。」
「悧巧な鳥でも、殺生石には斃《おち》るじゃないか。」
「うんや、大丈夫でがすべよ。」
「が、見る見るあの白い咽喉《のど》の赤くなったのが可恐《おそろし》いよ。」
「とろりと旨《うま》いと酔うがなす。」
にたにたと笑いながら、
「麦こがしでは駄目だがなす。」
「しかし……」
「お前様、それにの、鷺はの、明神様のおつかわしめだよ、白鷺明神というだでね。」
「ああ、そうか、あの向うの山のお堂だね。」
「余り人の行《ゆ》く処でねえでね。道も大儀だ。」
と、なぜか中を隔てるように、さし覗《のぞ》く小県の目の前で、頭を振った。
明神の森というと――あの白鷺はその梢へ飛んだ――なぜか爺が、まだ誰《たれ》も詣でようとも言わぬものを、悪く遮りだてするらしいのに、反感を持つとまでもなかったけれども、すぐにも出掛けたい気が起った。黒塚の婆《ばば》の納戸で、止《や》むを得ない。
「――時に、和尚さんは、まだなかなか帰りそうに見えないね。とすると、位牌《いはい》も過去帳も分らない。……」
「何しろ、この荒寺だ、和尚は出がちだよって、大切な物だけは、はい、町の在家の確かな蔵に預けてあるで。」
「また帰途《かえり》に寄るとしよう。」
不意に立掛けた。が、見掛けた目にも、若い綺麗《きれい》な人の持ものらしい提紙入《ハンドバック》に心を曳《ひ》かれた。またそれだけ、露骨に聞くのが擽《くすぐ》ったかったのを、ここで銑吉が棄鞭《すてむち》を打った。
「お爺さん、お寺には、おかみさん、いや、奥さんか。」
小さな声で、
「おだいこくがおいでかね。」
「は、とんでもねえ、それどころか、檀那《だんな》がねえで、亡者も居ねえ。だがな、またこの和尚が世棄人過ぎた、あんまり悟りすぎた。参詣の女衆《おなごしゅ》が、忘れたればとって、預けたればとって、あんだ、あれは。」
と、せきこんで、
「……外廻りをするにして、要心に事を欠いた。木魚を圧《おし》に置くとは何《あん》たるこんだ。」
と、やけに突立《つった》つ膝がしらに、麦こがしの椀を炉の中へ突込《つっこ》んで、ぱっと立つ白い粉に、クシンと咽《む》せたは可笑《おかし》いが、手向《たむけ》の水の涸《か》れたようで、見る目には、ものあわれ。
もくりと、掻落すように大木魚を膝に取って、
「ぼっかり押孕《おっぱら》んだ、しかも大《でっか》い、木魚講を見せつけられて、どんなにか、はい、女衆は恥かしかんべい。」
その時、提紙入《ハンドバック》の色が、紫陽花《あじさい》の浅葱《あさぎ》淡く、壁の暗さに、黒髪も乱れつつ、産婦の顔の萎《しお》れたように見えたのである。
谷間の卵塔に、田沢氏の墓のただ一基|苔《こけ》の払われた、それを思え。
「お爺さん、では、あの女の持ものは、お産で死んだ記念《かたみ》の納《おさめ》ものででもあるのかい。」
べそかくばかりに眉を寄せて、
「牡丹に立った白鷺になるよりも、人間は娑婆《しゃば》が恋しかんべいに、産で死んで、姑獲鳥《うぶめ》になるわ。びしょびしょ降《ぶり》の闇暗《くらやみ》に、若い女が青ざめて、腰の下さ血だらけで、あのこわれ屋の軒の上へ。……わあ、情《なさけ》ない。……お救い下され、南無普門品《なむふもんぼん》、第二十五。」
と炉縁をずり直って、たとえば、小県に股引の尻を見せ、向うむきに円く踞《うずくま》ったが、古寺の狸などを論ずべき場合でない――およそ、その背中ほどの木魚にしがみついて、もく、もく、もく、もく、と立てつけに鳴らしながら、
「南無普門品第二十五。」
「普門品第二十五。」
小県も、ともに口の裡《うち》で。
「この寺に観世音。」
「ああ居らっしゃるとも、難有《ありがた》い、ありがたい……」
「その本堂に。」
「いや、あちらの棟だ。――ああ、参らっしゃるか。」
「参ろうとも。」
「おお、いい事だ、さあ、ござい、ござい。」
と抱込んだ木魚を、もく、もくと敲《たた》きながら、足腰の頑丈づくりがひょこひょこと前《さき》へ立った。この爺さん、どうかしている。
が、導かれて、御廚子《みずし》の前へ進んでからは――そういう小県が、かえって、どうかしないではいられなくなったのである。
この庫裡《くり》と、わずかに二棟、隔ての戸もない本堂は、置棚の真中《まんなか》に、名号《みょうごう》を掛けたばかりで、その外の横縁に、それでも形《かた》ばかり階段が残った。以前は橋廊下で渡ったらしいが、床板の折れ挫《ひしゃ》げたのを継合せに土に敷いてある。
明神の森が右の峰、左に、卵塔場を谷に見て、よく一人で、と思うばかり、前刻《さっき》彳《たたず》んだ、田沢氏の墓はその谷の草がくれ。
向うの階《きざはし》を、木魚が上《あが》る。あとへ続くと、須弥壇《しゅみだん》も仏具も何もない。白布を蔽《おお》うた台に、経机を据えて、その上に黒塗の御廚子があった。
庫裡の炉の周囲《まわり》は筵《むしろ》である。ここ
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