ットが鎌首によく似ている。
見る間に、山腹の真黒《まっくろ》な一叢《ひとむら》の竹藪《たけやぶ》を潜《くぐ》って隠れた時、
「やーい。」
「おーい。」
ヒュウ、ヒュウと幽《かすか》に聞こえた。なぜか、その笛に魅せられて、少年等が、別の世、別の都、別の町、あやしきかくれ里へ攫《さら》われて行《ゆ》きそうで、悪酒に酔ったように、凡杯の胸は塞《ふさが》った。
自動車たるべきものが、スピイドを何とした。
茫然《ぼうぜん》とした状《さま》して、運転手が、汚れた手袋の指の破れたのを凝《じっ》と視《み》ている。――掌に、銀貨が五六枚、キラキラと光ったのであった。
「――お爺さん、何だろうね。」
「…………」
「私も、運転手も、現に見たんだが。」
「さればなす……」
と、爺さんは、粉煙草《こなたばこ》を、三度ばかりに火皿の大きなのに撮《つま》み入れた。
……根太の抜けた、荒寺の庫裡《くり》に、炉の縁で。……
三
西明寺《さいみょうじ》――もとこの寺は、松平氏が旧領石州から奉搬の伝来で、土地の町村に檀家《だんか》がない。従って盆暮のつけ届け、早い話がおとむらい一つない。如法《にょほう》の貧地で、堂も庫裡も荒れ放題。いずれ旧藩中ばかりの石碑だが、苔《こけ》を剥《む》かねば、紋も分らぬ。その墓地の図面と、過去帳は、和尚が大切にしているが、あいにく留守。……
墓参のよしを聴いて爺さんが言ったのである。
「ほか寺の仏事の手伝いやら托鉢《たくはつ》やらで、こちとら同様、細い煙を立てていなさるでなす。」
あいにく留守だが、そこは雲水、風の加減で、ふわりと帰る事もあろう。
「まあ一服さっせえまし、和尚様とは親類づきあい、渋茶をいれて進ぜますで。」
とにかく、いい人に逢った。爺さんは、旧藩士ででもあんなさるかと聞くと、
「孫八とこいて、いやはや、若い時から、やくざでがしての。縁は異なもの、はッはッはッ。お前様、曾祖父様《ひいじいさま》や、祖父様の背戸畑で、落穂を拾った事もあんべい。――鼠棚《ねずみだな》捜いて麦こがしでも進ぜますだ。」
ともなわれて庫裡に居《お》る――奥州片原の土地の名も、この荒寺では、鼠棚がふさわしい。いたずらものが勝手に出入《ではい》りをしそうな虫くい棚の上に、さっきから古木魚が一つあった。音も、形も馴染《なじみ》のものだが、仏具だから、俗家の小県は幼いいたずら時にもまだ持って見たことがない。手頃なのは大抵想像は付くけれども、かこみほとんど二尺、これだけの大きさだと、どのくらい重量《めかた》があろうか。普通は、本堂に、香華《こうげ》の花と、香の匂《におい》と明滅する処に、章魚《たこ》胡坐《あぐら》で構えていて、おどかして言えば、海坊主の坐禅のごとし。……辻の地蔵尊の涎掛《よだれかけ》をはぎ合わせたような蒲団《ふとん》が敷いてある。ところを、大木魚の下に、ヒヤリと目に涼しい、薄色の、一目見て紛《まが》う方なき女持ちの提紙入《ハンドバック》で。白い桔梗《ききょう》と、水紅色《ときいろ》の常夏《とこなつ》、と思ったのが、その二色《ふたいろ》の、花の鉄線かずらを刺繍《ししゅう》した、銀座むきの至極当世な持もので、花はきりりとしているが、葉も蔓《つる》も弱々しく、中のものも角ばらず、なよなよと、木魚の下すべりに、優しい女の、帯の端を引伏せられたように見えるのであった。
はじめ小県が、ここの崖を、墓地へ下りる以前に、寺の庫裡を覗《のぞ》いた時、人気《ひとけ》も、火の気もない、炉の傍《そば》に一段高く破れ落ちた壁の穴の前に、この帯らしいものを見つけて、うつくしい女の、その腰は、袖は、あらわな白い肩は、壁外に逆《さかさ》になって、蜘蛛《くも》の巣がらみに、蒼白《あおじろ》くくくられてでもいそうに思った。
瞬間の幻視である。手提《てさげ》はすぐ分った。が、この荒寺、思いのほか、陰寂な無人《ぶじん》の僻地《へきち》で――頼もう――を我が耳で聞返したほどであったから。……
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私の隣の松さんは、熊野へ参ると、髪|結《ゆ》うて、
熊野の道で日が暮れて、
あと見りゃ怖《おそろ》しい、先見りゃこわい。
先の河原で宿取ろか、跡の河原で宿取ろか。
さきの河原で宿取って、鯰《なまず》が出て、押えて、
手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ可愛いし、
杓子《しゃくし》ですくうて、線香《せんこ》で担《にな》って、燈心で括《くく》って、
仏様のうしろで、一切《ひときれ》食や、うまし、二切食や、うまし……
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紀州の毬唄《まりうた》で、隠微な残虐《ざんぎゃく》の暗示がある。むかし、熊野|詣《もうで》の山道に行暮れて、古寺に宿を借りた、若い娘が燈心で括って線香で担って、鯰を食べたのではない。鯰の方が若い娘を、……あとは言わずとも可《よ》かろう。例証は、遠く、今昔物語、詣鳥部寺女の語《はなし》にある、と小県はかねて聞いていた。
紀州を尋ねるまでもなかろう。
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……今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱きとめられて、
高い縁から突落されて、笄《こうがい》落し、小枕《こまくら》落し……
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古寺の光景は、異様な衝動で渠《かれ》を打った。
普通、草双紙なり、読本なり、現代一種の伝奇においても、かかる場合には、たまたま来《きた》って、騎士《ナイト》がかの女を救うべきである。が、こしらえものより毬唄の方が、現実を曝露《ばくろ》して、――女は速《すみやか》に虐《しえた》げられているらしい。
同時に、愛惜《あいじゃく》の念に堪えない。ものあわれな女が、一切食われ一切食われ、木魚に圧《おさ》え挫《ひし》がれた、……その手提に見入っていたが、腹のすいた狼《おおかみ》のように庫裡へ首を突込《つっこ》んでいて可《い》いものか。何となく、心ゆかしに持っていた折鞄《おりかばん》を、縁側ずれに炉の方へ押入れた。それから、卵塔の草を分けたのであった。――一つは、鞄を提げて墓詣《はかまいり》をするのは、事務を扱うようで気がさしたからであった。
今もある。……木魚の下に、そのままの涼しい夏草と、ちょろはげの鞄とを見較《みくら》べながら、
「――またその何ですよ。……待っていられては気忙《きぜわ》しいから、帰りは帰りとして、自然、それまでに他《ほか》の客がなかったらお世話になろう。――どうせ隙《ひま》だからいつまでも待とうと云うのを――そういってね、一旦《いったん》運転手に分れた――こっちの町|尽頭《はずれ》の、茶店……酒場《バア》か。……ざっとまあ、饂飩屋《うどんや》だ。それからは、見た目にも道わるで、無理に自動車を通した処で、歩行《ある》くより難儀らしいから下りたんですがね――饂飩酒場《うどんバア》の女給も、女房《かみ》さんらしいのも――その赤い一行は、さあ、何だか分らない、と言う。しかし、お小姓に、太刀のように鉄砲を持たしていれば、大将様だ。大方、魔ものか、変化にでも挨拶《あいさつ》に行《ゆ》くのだろう、と言うんです。
魔ものだの、変化だのに、挨拶は変だ、と思ったが、あとで気がつくと、女|連《れん》は、うわさのある怪しいことに、恐しく怯《おび》えていて、陰でも、退治《たいじ》るの、生捉《いけど》るのとは言い憚《はばか》ったものらしい。がまあ、この辺にそんなものが居るのかね。……運転手は笑っていたが、私は真面目さ。何でも、この山奥に大沼というのがある?……ありますか、お爺さん。」
「あるだ。」
その時、この気軽そうな爺さんが、重たく点頭した。
「……阿武隈川が近いによって、阿武沼と、勿体《もったい》つけるで、国々で名高い、湖や、潟ほど、大いなものではねえだがなす、むかしから、それを逢魔沼《おうまぬま》と云うほどでの、樹木が森々《しんしん》として凄《すご》いでや、めったに人が行がねえもんだで、山奥々々というだがね。」
と額を暗く俯向《うつむ》いた。が、煙管《きせる》を落して、門――いや、門も何もない、前通りの草の径《こみち》を、向うの原越しに、差覗《さしのぞ》くがごとく、指をさし、
「あの山を一つ背後《うしろ》へ越した処だで、沢山《たんと》遠い処ではねえが。」
と言う。
その向う山の頂に、杉|檜《ひのき》の森に包まれた、堂、社《やしろ》らしい一地がある。
「……途中でも、気が着いたが。」
水の影でも映りそうに、その空なる樹《こ》の間《ま》は水色に澄んで青い。
「沼は、あの奥に当るのかね。」
「えへい、まあ、その辺の見当ずら。」
と、掌をもじゃもじゃと振るのが、枯葉が乱れて、その頂の森を掻乱《かきみだ》すように見え、
「何かね、その赤い化もの……」
「赤いのが化けものじゃあない――お爺さん。」
「はあ、そうけえ。」
と妙に気の抜けた返事をする。
「……だから、私が――じゃあ、その阿武沼、逢魔沼か。そこへ、あの連中は行ったんだろうか、沼には変った……何か、可恐《おそろし》い、可怪《あやし》い事でもあるのかね。饂飩酒場の女房が、いいえ、沼には牛鬼が居るとも、大蛇《おろち》が出るとも、そんな風説《うわさ》は近頃では聞きませんが、いやな事は、このさきの街道――畷《なわて》の中にあった、というんだよ。寺の前を通る道は、古い水戸街道なんだそうだね。」
「はあ、そうでなす。」
「ぬかるみを目の前にして……さあ、出掛けよう。で、ここへ私が来る道だ。何が出ようとこの真昼間《まっぴるま》、気にはしないが、もの好きに、どんな可恐《おそろし》い事があったと聞くと、女給と顔を見合わせてね、旦那《だんな》、殿方には何でもないよ。アハハハと笑って、陽気に怯《おど》かす……その、その辺を女が通ると、ひとりでに押孕《おっぱら》む……」
「馬鹿あこけ、あいつ等。」
と額にびくびくと皺《しわ》を刻み、痩腕《やせうで》を突張《つっぱ》って、爺は、彫刻のように堅くなったが、
「あッはッはッ。」
唐突《だしぬけ》に笑出した。
「あッはッはッ。」
たちまち口にふたをして、
「ここは噴出す処でねえ。麦こがしが消飛《けしと》ぶでや、お前様もやらっせえ、和尚様の塩加減が出来とるで。」
欠茶碗にもりつけた麦こがしを、しきりに前刻《さっき》から、たばせた。が、匙《さじ》は附木《つけぎ》の燃《もえ》さしである。
「ええ塩梅《あんばい》だ。さあ、やらっせえ、さ。」
掻《か》い候え、と言うのである。これを思うと、木曾殿の、掻食わせた無塩《ぶえん》の平茸《ひらたけ》は、碧澗《へきかん》の羹《あつもの》であろう。が、爺さんの竈禿《くどはげ》の針白髪《はりしらが》は、阿倍の遺臣の概《がい》があった。
「お前様の前だがの、女が通ると、ひとりで孕むなぞと、うそにも女の身になったらどうだんべいなす、聞かねえ分で居さっせえまし。優しげな、情合《じょうあい》の深い、旦那、お前様だ。」
「いや、恥かしい、情があるの、何のと言って。墓詣りは、誰でもする。」
「いや、そればかりではねえ。――知っとるだ。お前様は人間扱いに、畜類にものを言わしったろ。」
「畜類に。」
「おお、鷺《さぎ》によ。」
「鷺に。」
「白鷺に。畷《なわて》さ来る途中でよ。」
「ああ、知ってるのかい、それはどうも。」
四
――きみ、きみ――
白鷺に向って声を掛けた。
「人に聞かれたのでは極《きま》りが悪いね……」
西明寺を志して来る途中、一処、道端の低い畝《あぜ》に、一叢《ひとむら》の緋牡丹《ひぼたん》が、薄曇る日に燃ゆるがごとく、二輪咲いて、枝の莟《つぼみ》の、撓《たわわ》なのを見た。――奥路に名高い、例の須賀川の牡丹園の花の香が風に伝わるせいかも知れない、汽車から視《なが》める、目の下に近い、門《かど》、背戸、垣根。遠くは山裾《やますそ》にかくれてた茅屋《かやや》にも、咲昇る葵《あおい》を凌《しの》いで牡丹を高く見たのであった。が、こんなに心易い処に咲いたのには逢わなかった。またどこにもあるまい。細竹一節の囲《かこい》もない、酔え
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