るまで、それ切り、その消息を知らなかったのである。
 もし梅水の出店をしたのが、近い処は、房総地方、あるいは軽井沢、日光――塩原ならばいうまでもない。地の利によらないことは、それが木曾路でも、ふとすると、こんな処で、どうした拍子、何かの縁で、おなじ人に、逢うまじきものでもない、と思ったろう。
 仏蘭西《フランス》の港で顔を見たより、瑞西《スウィッツル》の山で出会ったのより、思掛けなさはあまりであったが――ここに古寺の観世音の前に、紅白の絹に添えた扇子《おうぎ》の名は、築地の黒塀を隔てた時のようではない。まのあたりその人に逢ったようで、単衣《ひとえ》の袖も寒いほど、しみじみと、熟《じっ》と視《み》た。

 たちまち、炬《たいまつ》のごとく燃ゆる、おもほてりを激しく感じた。
 爺さんが、庫裡《くり》から取って来た、燈明の火が、ちらちらと、
「やあ、見るもんじゃねえ。」
 その、扇子を引ったくると、
「あなたよ、こんなものを置いとくだ。」
 と叱るようにいって、開いたまま、その薄色の扇子で、木魚を伏せた。
 極《きま》りも悪いし、叱られたわんぱくが、ふてたように、わざとらしく祝していった。

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