を引こうと、乗出し、泳上る自信の輩《やから》の頭《こうべ》を、幣結《しでゆ》うた榊《さかき》をもって、そのあしきを払うようなものである。
いわんや、銑吉のごとき、お月掛なみの氏子《うじこ》をや。
その志を、あわれむ男が、いくらか思《おもい》を通わせてやろうという気で。……
「小県の惚れ方は大変だよ。」
「…………」
「嬉しいだろう。」
「ええ。」
目で、ツンと澄まして、うけ口をちょっとしめて、莞爾《にっこり》……
「嬉しいですわ。」
しかも、銑吉が同座で居た。
余計な事だが――一説がある。お誓はうまれが東京だというのに「嬉しいですわ。」は、おかしい。この言葉づかいは、銀座あるきの紳士、学生、もっぱら映画の弁士などが、わざと粋がって「避暑に行ったです。」「アルプスへ上るです。」と使用するが、元来は訛《なまり》である。恋われて――いやな言葉づかいだが――挨拶《あいさつ》をするのに、「嬉しいですわ。」は、嬉しくない、と言うのである。
紳士、学生、あえて映画の弁士とは限らない。梅水の主人は趣味が遍《あまね》く、客が八方に広いから、多方面の芸術家、画家、彫刻家、医、文、法、理工の学士
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