念のため断るが、銑吉には、はやく女房がある。しかり、女房があって資産がない。女房もちの銭《ぜに》なしが当世色恋の出来ない事は、昔といえども実はあまりかわりはない。
 打あけて言えば、渠《かれ》はただ自分勝手に、惚《ほ》れているばかりなのである。
 また、近頃の色恋は、銀座であろうが、浅草であろうが、山の手新宿のあたりであろうが、つつしみが浅く、たしなみが薄くなり、次第に面の皮が厚くなり、恥が少くなったから、惚れたというのに憚《はばか》ることだけは、まずもってないらしい。
 釣の道でも(岡)と称《な》がつくと軽《かろ》んぜられる。銑吉のも、しかもその岡惚れである。その癖、夥間《なかま》で評判である。
 この岡惚れの対象となって、江戸育ちだというから、海津か卵であろう、築地辺の川端で迷惑をするのがお誓さんで――実は梅水という牛屋の女中《ねえ》さん。……御新規お一人様、なまで御酒《ごしゅ》……待った、待った。そ、そんなのじゃ決してない。第一、お客に、むらさきだの、鍋下《なべした》だのと、符帳でものを食うような、そんなのも決して無い。
 梅水は、以前築地一流の本懐石、江戸前の料理人が庖丁を※[
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