《ひゆきょう》にでもお求めありたい。ここでは手近な絵本西遊記で埒《らち》をあける。が、ただ先哲、孫呉空は、※[#「虫+焦」、第4水準2−87−89]螟虫《ごまむし》と変じて、夫人の腹中に飛び込んで、痛快にその臓腑《ぞうふ》を抉《えぐ》るのである。末法の凡俳は、咽喉《のど》までも行かない、唇に触れたら酸漿《ほおずき》の核《たね》ともならず、溶《とろ》けちまおう。
ついでに、おかしな話がある。六七人と銑吉がこの近所の名代の天麸羅《てんぷら》で、したたかに食《くら》い且つ飲んで、腹こなしに、ぞろぞろと歩行《あるき》出して、つい梅水の長く続いた黒塀に通りかかった。
盛り場でも燈《ともしび》を沈め、塀の中は植込で森《しん》と暗い。処で、相談を掛けてみたとか、掛けてみるまでもなかったとかいう。……天麸羅のあとで、ヒレの大切れのすき焼は、なかなか、幕下でも、前頭でも、番附か逸話に名の出るほどの人物でなくてはあしらい兼ねる。素通りをすることになった。遺憾さに、内は広し、座敷は多し、程は遠い……
「お誓さん。」
黒塀を――惚れた女に洋杖《ステッキ》は当てられない――斜《ななめ》に、トンと腕で当てた。当てると、そのまくれた二の腕に、お誓の膚《はだ》が透通って、真白《まっしろ》に見えたというのである。
銑吉の馬鹿を表わすより、これには、お誓の容色の趣を偲《しの》ばせるものがあるであろう。
ざっと、かくの次第であった処――好事魔多しというではなけれど、右の溌猴《わるざる》は、心さわがしく、性急だから、人さきに会《あい》に出掛けて、ひとつ蛇の目を取巻くのに、度《たび》かさなるに従って、自然とおなじ顔が集るが、星座のこの分野に当っては、すなわち夜這星《よばいぼし》が真先《まっさき》に出向いて、どこの会でも、大抵|点燈頃《ひともしごろ》が寸法であるのに、いつも暮まえ早くから大広間の天井下に、一つ光って……いや、光らずに、ぽつんと黒く、流れている。
勿論、ここへお誓が、天女の装《よそおい》で、雲に白足袋で出て来るような待遇では決してない。
その愚劣さを憐《あわれ》んで、この分野の客星たちは、他《ほか》より早く、輝いて顕《あら》われる。輝くばかりで、やがて他の大一座が酒池肉林となっても、ここばかりは、畳に蕨《わらび》が生えそうに見える。通りかかった女中に催促すると、は、とばかりで、それきり、寄りつかぬ。中でも活溌なのは、お誓さんでなくってはねえ、ビイーと外《そ》れてしまう。またそのお誓はお誓で、まず、ほかほかへ皿小鉢、銚子《ちょうし》を運ぶと、お門《かど》が違いましょう。で、知りませんと、鼻をつまらせ加減に、含羞《はにか》んで、つい、と退《の》くが、そのままでは夜這星の方へ来にくくなって、どこへか隠れる。ついお銚子が遅くなって、巻煙草の吸殻ばかりが堆《うずたか》い。
何となく、ために気がとがめて、というのが、会が月の末に当るので、懐中《ふところ》勘定によったかも分らぬ。一度、二度と間を置くうち、去年七月の末から、梅水が……これも近頃各所で行われる……近くは鎌倉、熱海。また軽井沢などへ夏季の出店《でみせ》をする。いやどこも不景気で、大したほまちにはならないそうだけれど、差引一ぱいに行けば、家族が、一夏避暑をする儲けがある。梅水は富士の裾野《すその》――御殿場へ出張した。
そこへ、お誓が手伝いに出向いたと聞いて、がっかりして、峰は白雪、麓《ふもと》は霞だろう、とそのまま夜這星の流れて消えたのが――もう一度いおう――去年の七月の末頃であった。
この、六月――いまに至るまで、それ切り、その消息を知らなかったのである。
もし梅水の出店をしたのが、近い処は、房総地方、あるいは軽井沢、日光――塩原ならばいうまでもない。地の利によらないことは、それが木曾路でも、ふとすると、こんな処で、どうした拍子、何かの縁で、おなじ人に、逢うまじきものでもない、と思ったろう。
仏蘭西《フランス》の港で顔を見たより、瑞西《スウィッツル》の山で出会ったのより、思掛けなさはあまりであったが――ここに古寺の観世音の前に、紅白の絹に添えた扇子《おうぎ》の名は、築地の黒塀を隔てた時のようではない。まのあたりその人に逢ったようで、単衣《ひとえ》の袖も寒いほど、しみじみと、熟《じっ》と視《み》た。
たちまち、炬《たいまつ》のごとく燃ゆる、おもほてりを激しく感じた。
爺さんが、庫裡《くり》から取って来た、燈明の火が、ちらちらと、
「やあ、見るもんじゃねえ。」
その、扇子を引ったくると、
「あなたよ、こんなものを置いとくだ。」
と叱るようにいって、開いたまま、その薄色の扇子で、木魚を伏せた。
極《きま》りも悪いし、叱られたわんぱくが、ふてたように、わざとらしく祝していった。
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