を引こうと、乗出し、泳上る自信の輩《やから》の頭《こうべ》を、幣結《しでゆ》うた榊《さかき》をもって、そのあしきを払うようなものである。
 いわんや、銑吉のごとき、お月掛なみの氏子《うじこ》をや。
 その志を、あわれむ男が、いくらか思《おもい》を通わせてやろうという気で。……
「小県の惚れ方は大変だよ。」
「…………」
「嬉しいだろう。」
「ええ。」
 目で、ツンと澄まして、うけ口をちょっとしめて、莞爾《にっこり》……
「嬉しいですわ。」
 しかも、銑吉が同座で居た。
 余計な事だが――一説がある。お誓はうまれが東京だというのに「嬉しいですわ。」は、おかしい。この言葉づかいは、銀座あるきの紳士、学生、もっぱら映画の弁士などが、わざと粋がって「避暑に行ったです。」「アルプスへ上るです。」と使用するが、元来は訛《なまり》である。恋われて――いやな言葉づかいだが――挨拶《あいさつ》をするのに、「嬉しいですわ。」は、嬉しくない、と言うのである。
 紳士、学生、あえて映画の弁士とは限らない。梅水の主人は趣味が遍《あまね》く、客が八方に広いから、多方面の芸術家、画家、彫刻家、医、文、法、理工の学士、博士、俳優、いずれの道にも、知名の人物が少くない。揃った事は、婦人科、小児科、歯科もある。申しおくれました、作家、劇作家も勿論ある。そこで、この面々が、年齢の老若にかかわらず、東京ばかりではない。のみならず、ことさらに、江戸がるのを毛嫌いして「そうです。」「のむです。」を行《や》る名士が少くない。純情|無垢《むく》な素質であるほど、ついその訛《なまり》がお誓にうつる。
 浅草寺の天井の絵の天人が、蓮華の盥《たらい》で、肌脱ぎの化粧をしながら、「こウ雲助どう、こんたア、きょう下界へでさっしゃるなら、京橋の仙女香を、とって来ておくんなんし、これサ乙女や、なによウふざけるのだ、きりきりきょうでえをだしておかねえか。」(○註に、けわい坂《ざか》――実は吉原――近所だけか、おかしなことばが、うつッていたまう、)と洒落《しゃ》れつつ敬意を表した、著作の実例がある。遺憾《いかん》ながら「嬉しいですわ。」とはかいてない。けれども、その趣はわかると思う。またそれよりも、真珠の首飾見たようなものを、ちょっと、脇の下へずらして、乳首をかくした膚《はだ》を、お望みの方は、文政|壬辰《みずのえたつ》新板、柳亭種彦作、歌川国貞|画《えがく》――奇妙頂礼《きみょうちょうらい》地蔵の道行――を、ご一覧になるがいい。
 通り一遍の客ではなく、梅水の馴染《なじみ》で、昔からの贔屓《ひいき》連が、六七十人、多い時は百人に余る大一座で、すき焼で、心置かず隔てのない月並の会……というと、俳人には禁句らしいが、そこらは凡杯で悟っているから、一向に頓着《とんじゃく》しない。先輩、また友達に誘われた新参で。……やっと一昨年の秋頃だから、まだ馴染も重ならないのに、のっけから岡惚れした。
「お誓さん。」
「誓ちゃん。」
「よう、誓の字。」
 いや、どうも引手あまたで。大連が一台ずつ、黒塗り真円《まんまる》な大円卓を、ぐるりと輪形に陣取って、清正公には極内《ごくない》だけれども、これを蛇の目の陣と称《とな》え、すきを取って平らげること、焼山越《やけやまごえ》の蠎蛇《うわばみ》の比にあらず、朝鮮|蔚山《うるさん》の敵軍へ、大砲を打込むばかり、油の黒煙を立てる裡《なか》で、お誓を呼立つること、矢叫びに相斉《あいひと》しい。名を知らぬものまで、白く咲いて楚々《そそ》とした花には騒ぐ。
 巨匠にして、超人と称えらるる、ある洋画家が、わが、名によって、お誓をひき寄せ、銑吉を傍《かたわら》にして、
「お誓さんに是非というのだ、この人に酌をしておあげなさい。」
「はい。」
 が、また娘分に仕立てられても、奉公人の謙譲があって、出過ぎた酒場《バア》の給仕とは心得が違うし、おなじ勤めでも、芸者より一歩|退《さが》って可憐《しおら》しい。
「はい、お酌……」
「感謝します、本懐であります。」
 景物なしの地位ぐらいに、句が抜けたほど、嬉しがったうちはいい。
 少し心安くなると、蛇の目の陣に恐《おそれ》をなし、山の端《は》の霧に落ちて行く――上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》のような優姿《やさすがた》に、野声《のごえ》を放って、
「お誓さん、お誓さん。姉さん、姐《あね》ご、大姐ご。」
 立てごかしに、手繰りよせると、酔った赤づらの目が、とろんこで、
「お酌を頼む。是非一つ。」
 このねだりものの溌猴《わるざる》、魔界の艶夫人に、芭蕉扇を、貸さずば、奪わむ、とする擬勢を顕《あら》わす。……博識にしてお心得のある方々は、この趣を、希臘《ギリシア》、羅馬《ロオマ》の神話、印度の譬諭経
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