#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さ》びさせない腕を研《みが》いて、吸ものの運びにも女中の裙《すそ》さばきを睨《にら》んだ割烹《かっぽう》。震災後も引続き、黒塀の奥深く、竹も樹も静まり返って客を受けたが、近代のある世態では、篝火船《かがりぶね》の白魚より、舶来の塩鰯《しおいわし》が幅をする。正月飾りに、魚河岸に三個《みッつ》よりなかったという二尺六寸の海老《えび》を、緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》のごとく、黒松の樽に縅した一騎|駈《がけ》の商売では軍《いくさ》が危い。家の業が立ちにくい。がらりと気を替えて、こうべ肉のすき焼、ばた焼、お望み次第に客を呼んで、抱一《ほういつ》上人の夕顔を石燈籠《いしどうろう》の灯でほの見せる数寄屋《すきや》づくりも、七賢人の本床に立った、松林の大広間も、そのままで、びんちょうの火を堆《うずたか》く、ひれの膏《あぶら》を※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》る。
この梅水のお誓は、内の子、娘分であるという。来たのは十三で、震災の時は十四であった。繰返していうでもあるまい――あの炎の中を、主人の家《うち》を離れないで、勤め続けた。もっとも孤児《みなしご》同然だとのこと、都にしかるべき身内もない。そのせいか、沈んだ陰気な質《たち》ではないが、色の、抜けるほど白いのに、どこか寂しい影が映る。膚《はだ》をいえば、きめが細《こまか》く、実際、手首、指の尖《さき》まで化粧をしたように滑らかに美しい。細面で、目は、ぱっちりと、大きくないが張《はり》があって、そして眉が優しい。緊《しま》った口許《くちもと》が、莞爾《にっこり》する時ちょっとうけ口のようになって、その清い唇の左へ軽く上るのが、笑顔ながら凜《りん》とする。総てが薄手で、あり余る髪の厚ぼったく見えないのは、癖がなく、細く、なよなよとしているのである。緋《ひ》も紅も似合うものを、浅葱だの、白の手絡《てがら》だの、いつも淡泊《あっさり》した円髷《まるまげ》で、年紀《とし》は三十を一つ出た。が、二十四五の上には見えない。一度五月の節句に、催しの仮装の時、水髪の芸子島田に、青い新藁《しんわら》で、五尺の菖蒲《あやめ》の裳《もすそ》を曳《ひ》いた姿を見たものがある、と聞く。……貴殿はいい月日の下に生れたな、と言わねばならぬように思う。あるいは一度新橋からお酌で出たのが、都合で、梅水にかわったともいうが、いまにおいては審《つまびらか》でない。ただ不思議なのは、さばかりの容色《きりょう》で、その年まで、いまだ浮気、あらわに言えば、旦那があったうわさを聞かぬ。ほかは知らない、あのすなおな細い鼻と、口許がうそを言わぬ。――お誓さんは処女だろう……(しばらく)――これは小県銑吉の言うところである。
十六か七の時、ただ一度――場所は築地だ、家は懐石、人も多いに、台所から出入りの牛乳屋《ちちや》の小僧が附ぶみをした事のあるのを、最も古くから、お誓を贔屓《ひいき》の年配者、あたまのきれいに兀《は》げた粋人が知っている。梅水の主人夫婦も、座興のように話をする。ゆらの戸の歌ではなけれど、この恋の行方は分らない。が、対手《あいて》が牛乳屋の小僧だけに、天使と牧童のお伽話《とぎばなし》を聞く気がする。ただその玉章《たまずさ》は、お誓の内証《ないしょ》の針箱にいまも秘めてあるらしい。……
「……一生の願《ねがい》に、見たいものですな。」
「お見せしましょうか。」
「恐らく不老長寿の薬になる――近頃はやる、性の補強剤に効能の増《まさ》ること万々だろう。」
「そうでしょうか。」
その頬が、白く、涼しい。
「見せろよ。」
低い声の澄んだ調子で、
「ほほほ。」
と莞爾《にっこり》。
その口許の左へ軽くしまるのを見るがいい。……座敷へ持出さないことは言うまでもない。
色気の有無《ほど》が不可解である。ある種のうつくしいものは、神が惜《おし》んで人に与えない説がある。なるほどそういえば、一方円満柔和な婦人に、菩薩相《ぼさつそう》というのがある。続いて尼僧顔がないでもあるまい。それに対して、お誓の処女づくって、血の清澄明晰《せいしょうめいせき》な風情に、何となく上等の神巫《みこ》の麗女《たおやめ》の面影が立つ。
――われ知らず、銑吉のかくれた意識に、おのずから、毒虫の毒から救われた、うつくしい神巫《おみこ》の影が映るのであろう。――
おお美わしのおとめよ、と賽銭《さいせん》に、二百金、現に三百金ほどを包んで、袖に呈《てい》するものさえある。が、お誓はいつも、そのままお帳場へ持って下って、おかみさんの前で、こんなもの。すぐ、おかみさんが、つッと出て、お給仕料は、お極《きま》りだけ御勘定の中に頂いてありますから。……これでは、玉の手を握ろう、紅《もみ》の袴《はかま》
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