燈明之巻
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蝮《まむし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松平|某氏《なにがし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》
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       一

「やあ、やまかがしや蝮《まむし》が居《お》るぞう、あっけえやつだ、気をつけさっせえ。」
「ええ。」
 何と、足許《あしもと》の草へ鎌首が出たように、立すくみになったのは、薩摩絣《さつまがすり》の単衣《ひとえ》、藍鼠《あいねずみ》無地の絽《ろ》の羽織で、身軽に出立《いでた》った、都会かららしい、旅の客。――近頃は、東京でも地方でも、まだ時季が早いのに、慌てもののせいか、それとも値段が安いためか、道中の晴の麦稈帽《むぎわらぼう》。これが真新しいので、ざっと、年よりは少《わか》く見える、そのかわりどことなく人体《にんてい》に貫目のないのが、吃驚《びっくり》した息もつかず、声を継いで、
「驚いたなあ、蝮は弱ったなあ。」
 と帽子の鍔《つば》を――薄曇りで、空は一面に陰気なかわりに、まぶしくない――仰向《あおむ》けに崖《がけ》の上を仰いで、いま野良声を放った、崖縁にのそりと突立《つった》つ、七十余りの爺《じい》さんを視《み》ながら、蝮は弱ったな、と弱った。が、実は蛇ばかりか、蜥蜴《とかげ》でも百足《むかで》でも、怯《おび》えそうな、据《すわ》らない腰つきで、
「大変だ、にょろにょろ居るかーい。」
「はああ、あアに、そんなでもねえがなし、ちょくちょく、鎌首をつん出すでい、気をつけさっせるがよかんべでの。」
「お爺さん、おい、お爺さん。」
「あんだなし。」
 と、谷へ返答だまを打込《ぶちこ》みながら、鼻から煙を吹上げる。
「煙草銭《たばこせん》ぐらい心得るよ、煙草銭を。だからここまで下りて来て、草生《くさっぱ》の中を連戻してくれないか。またこの荒墓《あれはか》……」
 と云いかけて、
「その何だ。……上の寺の人だと、悪いんだが、まったく、これは荒れているね。卵塔場へ、深入りはしないからよかったけれど、今のを聞いては、足がすくんで動かれないよ。」
「ははははは。」
 鼻のさきに漂《ただよ》う煙が、その頸窪《ぼんのくぼ》のあたりに、古寺の破廂《やれびさし》を、なめくじのように這《は》った。
「弱え人だあ。」
「頼むよ――こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。」
「はて、勿体《もったい》もねえ、とんだことを言うなっす。」
 と両《ふた》つ提《さげ》の――もうこの頃では、山の爺が喫《の》む煙草がバットで差支えないのだけれど、事実を報道する――根附《ねつけ》の処を、独鈷《とっこ》のように振りながら、煙管《きせる》を手弄《てなぶ》りつつ、ぶらりと降りたが、股引《ももひき》の足拵《あしごしら》えだし、腰達者に、ずかずか……と、もう寄った。
「いや、御苦労。」
 と一基の石塔の前に立並んだ、双方、膝の隠れるほど草深い。
 実際、この卵塔場は荒れていた。三方崩れかかった窪地の、どこが境というほどの杭《くい》一つあるのでなく、折朽《おれく》ちた古卒都婆《ふるそとば》は、黍殻《きびがら》同然に薙伏《なぎふ》して、薄暗いと白骨に紛れよう。石碑も、石塔も、倒れたり、のめったり、台に据っているのはほとんどない。それさえ十ウの八つ九つまでは、ほとんど草がくれなる上に、積った落葉に埋《うも》れている。青芒《あおすすき》の茂った、葉越しの谷底の一方が、水田に開けて、遥々《はるばる》と連る山が、都に遠い雲の形で、蒼空《あおぞら》に、離れ島かと流れている。
 割合に土が乾いていればこそで――昨日《きのう》は雨だったし――もし湿地だったら、蝮、やまかがしの警告がないまでも、うっかり一歩も入《い》れなかったであろう。
 それでもこれだけ分入《わけい》るのさえ、樹の枝にも、卒都婆にも、苔《こけ》の露は深かった。……旅客の指の尖《さき》は草の汁に青く染まっている。雑樹《ぞうき》の影が沁《し》むのかも知れない。
 蝙蝠《こうもり》が居そうな鼻の穴に、煙は残って、火皿に白くなった吸殻を、ふっふっと、爺は掌《てのひら》の皺《しわ》に吹落し、眉をしかめて、念のために、火の気のないのを目でためて、吹落すと、葉末にかかって、ぽすぽすと消える処を、もう一つ破草履《やれぞうり》で、ぐいと踏んで、
「ようござらっせえました、御参詣《ごさんけい》でがすかな。」
「さあ……」
 と、妙な返事をする。
「南無《なむ》、南無、何かね、お前様、このお墓に所縁の方でがんすかなす。」
 胡桃《くる
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