み》の根附を、紺小倉のくたびれた帯へ挟んで、踞《しゃが》んで掌を合せたので、旅客も引入れられたように、夏帽を取って立直った。
「所縁にも、無縁にも、お爺さん、少し墓らしい形の見えるのは、近間では、これ一つじゃあないか――それに、近い頃、参詣があったと見える、この線香の包紙のほぐれて残ったのを、草の中に覗《のぞ》いたものは、一つ家《や》の灯のように、誰だって、これを見当《みあて》に辿《たど》りつくだろうと思うよ。山路《やまみち》に行暮れたも同然じゃないか。」
碑の面《おもて》の戒名は、信士とも信女《しんにょ》とも、苔に埋れて見えないが、三つ蔦《づた》の紋所が、その葉の落ちたように寂しく顕《あら》われて、線香の消残った台石に――田沢氏――と仄《ほのか》に読まれた。
「は、は、修行者のように言わっしゃる、御遠方からでがんすかの、東京からなす。」
「いや、今朝は松島から。」
と袖を組んで、さみしく言った。
「御風流でがんす、お楽《たのし》みでや。」
「いや、とんでもない……波は荒れるし。」
「おお。」
「雨は降るし。」
「ほう。」
「やっと、お天気になったのが、仙台からこっちでね、いや、馬鹿々々しく、皈《かえ》って来た途中ですよ。」
成程、馬鹿々々しい……旅客は、小県《おがた》、凡杯《ぼんはい》――と自称する俳人である。
この篇の作者は、別懇の間柄だから、かけかまいのない処を言おう。食い続きは、細々ながらどうにかしている。しかるべき学校は出たのだそうだが、ある会社の低い処を勤めていて、俳句は好きばかり、むしろ遊戯だ。処で、はじめは、凡俳、と名のったが、俳句を遊戯に扱うと、近来は誰も附合わない。第一なぐられかねない。見ずや、きみ、やかなの鋭き匕首《あいくち》をもって、骨を削り、肉を裂いて、人性《じんせい》の機微を剔《ぬ》き、十七文字で、大自然の深奥《しんおう》を衝《つ》こうという意気込の、先輩ならびに友人に対して済まぬ。憚《はばか》り多い処から、「俳」を「杯」に改めた。が、一盞《いっさん》献ずるほどの、余裕も働きもないから、手酌で済ます、凡杯である。
それにしても、今時、奥の細道のあとを辿《たど》って、松島見物は、「凡」過ぎる。近ごろは、独逸《ドイツ》、仏蘭西《フランス》はつい隣りで、マルセイユ、ハンブルク、アビシニヤごときは津々浦々の中に数えられそうな勢《いきおい》。少し変った処といえば、獅子狩《ししがり》だの、虎狩だの、類人猿の色のもめ事などがほとんど毎月の雑誌に表われる……その皆がみんな朝夷《あさひな》島めぐりや、おそれ山の地獄話でもないらしい。
最近も、私を、作者を訪ねて見えた、学校を出たばかりの若い人が、一月ばかり、つい御不沙汰《ごぶさた》、と手軽い処が、南洋の島々を渡って来た。……ピイ、チョコ、キイ、キコと鳴く、青い鳥だの、黄色な鳥だの、可愛らしい話もあったが、聞く内にハッと思ったのは、ある親島から支島《えだじま》へ、カヌウで渡った時、白熱の日の光に、藍《あい》の透通る、澄んで静かな波のひと処、たちまち濃い萌黄《もえぎ》に色が変った。微風も一繊雲もないのに、ゆらゆらとその潮が動くと、水面に近く、颯《さっ》と黄薔薇《きばら》のあおりを打った。その大《おおき》さ、大洋の只中《ただなか》に計り知れぬが、巨大なる※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》の浮いたので、近々と嘲《あざ》けるような黄色な目、二丈にも余る青い口で、ニヤリとしてやがて沈んだ。海の魔宮の侍女であろう。その消えた後も、人の目の幻に、船の帆は少時《しばし》その萌黄の油を塗った。……「畳で言いますと」――話し手の若い人は見まわしたが、作者の住居《すまい》にはあいにく八畳以上の座敷がない。「そうですね、三十畳、いやもっと五十畳、あるいはそれ以上かも知れなかったのです。」と言うのである。
半日隙《はんにちびま》とも言いたいほどの、旅の手軽さがこのくらいである処を、雨に降られた松島見物を、山の爺《じじい》に話している、凡杯の談話ごときを――読者諸賢――しかし、しばらくこれを聴け。
二
小県凡杯は、はじめて旅をした松島で、着いた晩と、あくる日を降籠《ふりこ》められた。景色は雨に埋《うず》もれて、竈《かまど》にくべた生薪《なままき》のいぶったような心地がする。屋根の下の観光は、瑞巌寺《ずいがんじ》の大将、しかも眇《かため》に睨《にら》まれたくらいのもので、何のために奥州へ出向いたのか分らない。日も、懐中《ふところ》も、切詰めた都合があるから、三日めの朝、旅籠屋《はたごや》を出で立つと、途中から、からりとした上天気。
奥羽線の松島へ戻る途中、あの筋には妙に豆府屋が多い……と聞く。その油揚が陽炎《かげろう》を軒に立てて、豆府のような白い
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