ないよ。アハハハと笑って、陽気に怯《おど》かす……その、その辺を女が通ると、ひとりでに押孕《おっぱら》む……」
「馬鹿あこけ、あいつ等。」
と額にびくびくと皺《しわ》を刻み、痩腕《やせうで》を突張《つっぱ》って、爺は、彫刻のように堅くなったが、
「あッはッはッ。」
唐突《だしぬけ》に笑出した。
「あッはッはッ。」
たちまち口にふたをして、
「ここは噴出す処でねえ。麦こがしが消飛《けしと》ぶでや、お前様もやらっせえ、和尚様の塩加減が出来とるで。」
欠茶碗にもりつけた麦こがしを、しきりに前刻《さっき》から、たばせた。が、匙《さじ》は附木《つけぎ》の燃《もえ》さしである。
「ええ塩梅《あんばい》だ。さあ、やらっせえ、さ。」
掻《か》い候え、と言うのである。これを思うと、木曾殿の、掻食わせた無塩《ぶえん》の平茸《ひらたけ》は、碧澗《へきかん》の羹《あつもの》であろう。が、爺さんの竈禿《くどはげ》の針白髪《はりしらが》は、阿倍の遺臣の概《がい》があった。
「お前様の前だがの、女が通ると、ひとりで孕むなぞと、うそにも女の身になったらどうだんべいなす、聞かねえ分で居さっせえまし。優しげな、情合《じょうあい》の深い、旦那、お前様だ。」
「いや、恥かしい、情があるの、何のと言って。墓詣りは、誰でもする。」
「いや、そればかりではねえ。――知っとるだ。お前様は人間扱いに、畜類にものを言わしったろ。」
「畜類に。」
「おお、鷺《さぎ》によ。」
「鷺に。」
「白鷺に。畷《なわて》さ来る途中でよ。」
「ああ、知ってるのかい、それはどうも。」
四
――きみ、きみ――
白鷺に向って声を掛けた。
「人に聞かれたのでは極《きま》りが悪いね……」
西明寺を志して来る途中、一処、道端の低い畝《あぜ》に、一叢《ひとむら》の緋牡丹《ひぼたん》が、薄曇る日に燃ゆるがごとく、二輪咲いて、枝の莟《つぼみ》の、撓《たわわ》なのを見た。――奥路に名高い、例の須賀川の牡丹園の花の香が風に伝わるせいかも知れない、汽車から視《なが》める、目の下に近い、門《かど》、背戸、垣根。遠くは山裾《やますそ》にかくれてた茅屋《かやや》にも、咲昇る葵《あおい》を凌《しの》いで牡丹を高く見たのであった。が、こんなに心易い処に咲いたのには逢わなかった。またどこにもあるまい。細竹一節の囲《かこい》もない、酔える艶婦《えんぷ》の裸身である。
旅の袖を、直ちに蝶の翼に開いて――狐が憑《つ》いたと人さえ見なければ――もっとも四辺《あたり》に人影もなかったが――ふわりと飛んで、花を吸おうとも、莟を抱こうとも、心のままに思われた。
それだのに、十歩……いや、もっと十間ばかり隔たった処に、銑吉が立停《たちど》まったのは、花の莟を、蓑毛《みのけ》に被《かつ》いだ、舞の烏帽子《えぼし》のように翳《かざ》して、葉の裏すく水の影に、白鷺が一羽、婀娜《あだ》に、すっきりと羽を休めていたからである。
ここに一筋の小川が流れる。三尺ばかり、細いが水は清く澄み、瀬は立ちながら、悠揚として、さらさらと聞くほどの音もしない。山入《やまいり》の水源は深く沈んだ池沼《ちしょう》であろう。湖と言い、滝と聞けば、末の流《ながれ》のかくまで静《しずか》なことはあるまいと思う。たとい地理にしていかなりとも。
――松島の道では、鼓草《たんぽぽ》をつむ道草をも、溝を跨《また》いで越えたと思う。ここの水は、牡丹の叢《むら》のうしろを流れて、山の根に添って荒れた麦畑の前を行き、一方は、角《つの》ぐむ蘆《あし》、茅の芽の漂う水田であった。
道を挟んで、牡丹と相向う処に、亜鉛《トタン》と柿《こけら》の継はぎなのが、ともに腐れ、屋根が落ち、柱の倒れた、以前掛茶屋か、中食《ちゅうじき》であったらしい伏屋の残骸《ざんがい》が、蓬《よもぎ》の裡《なか》にのめっていた。あるいは、足休めの客の愛想に、道の対《むこ》う側を花畑にしていたものかも知れない。流転のあとと、栄花の夢、軒は枯骨のごとく朽ちて、牡丹の膚《はだ》は鮮紅である。
古蓑《ふるみの》が案山子《かかし》になれば、茶店の骸骨も花守をしていよう。煙は立たぬが、根太を埋めた夏草の露は乾かぬ。その草の中を、あたかも、ひらひら、と、ものの現《うつつ》のように、いま生れたらしい蜻蛉《とんぼ》が、群青《ぐんじょう》の絹糸に、薄浅葱《うすあさぎ》の結び玉を目にして、綾の白銀《しろがね》の羅《うすもの》を翼に縫い、ひらひら、と流《ながれ》の方へ、葉うつりを低くして、牡丹に誘われたように、道を伝った。
またあまりに儚《はかな》い。土に映る影もない。が、その影でさえ、触ったら、毒気でたちまち落ちたろう。――畷道《なわてみち》の真中《まんなか》に、別に、凄《すさま》じい虫が居た。
し
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