娘を、……あとは言わずとも可《よ》かろう。例証は、遠く、今昔物語、詣鳥部寺女の語《はなし》にある、と小県はかねて聞いていた。
 紀州を尋ねるまでもなかろう。
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……今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱きとめられて、
高い縁から突落されて、笄《こうがい》落し、小枕《こまくら》落し……
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 古寺の光景は、異様な衝動で渠《かれ》を打った。
 普通、草双紙なり、読本なり、現代一種の伝奇においても、かかる場合には、たまたま来《きた》って、騎士《ナイト》がかの女を救うべきである。が、こしらえものより毬唄の方が、現実を曝露《ばくろ》して、――女は速《すみやか》に虐《しえた》げられているらしい。
 同時に、愛惜《あいじゃく》の念に堪えない。ものあわれな女が、一切食われ一切食われ、木魚に圧《おさ》え挫《ひし》がれた、……その手提に見入っていたが、腹のすいた狼《おおかみ》のように庫裡へ首を突込《つっこ》んでいて可《い》いものか。何となく、心ゆかしに持っていた折鞄《おりかばん》を、縁側ずれに炉の方へ押入れた。それから、卵塔の草を分けたのであった。――一つは、鞄を提げて墓詣《はかまいり》をするのは、事務を扱うようで気がさしたからであった。
 今もある。……木魚の下に、そのままの涼しい夏草と、ちょろはげの鞄とを見較《みくら》べながら、
「――またその何ですよ。……待っていられては気忙《きぜわ》しいから、帰りは帰りとして、自然、それまでに他《ほか》の客がなかったらお世話になろう。――どうせ隙《ひま》だからいつまでも待とうと云うのを――そういってね、一旦《いったん》運転手に分れた――こっちの町|尽頭《はずれ》の、茶店……酒場《バア》か。……ざっとまあ、饂飩屋《うどんや》だ。それからは、見た目にも道わるで、無理に自動車を通した処で、歩行《ある》くより難儀らしいから下りたんですがね――饂飩酒場《うどんバア》の女給も、女房《かみ》さんらしいのも――その赤い一行は、さあ、何だか分らない、と言う。しかし、お小姓に、太刀のように鉄砲を持たしていれば、大将様だ。大方、魔ものか、変化にでも挨拶《あいさつ》に行《ゆ》くのだろう、と言うんです。
 魔ものだの、変化だのに、挨拶は変だ、と思ったが、あとで気がつくと、女|連《れん》は、うわさのある怪しいことに、恐しく怯《おび》えていて、陰でも、退治《たいじ》るの、生捉《いけど》るのとは言い憚《はばか》ったものらしい。がまあ、この辺にそんなものが居るのかね。……運転手は笑っていたが、私は真面目さ。何でも、この山奥に大沼というのがある?……ありますか、お爺さん。」
「あるだ。」
 その時、この気軽そうな爺さんが、重たく点頭した。
「……阿武隈川が近いによって、阿武沼と、勿体《もったい》つけるで、国々で名高い、湖や、潟ほど、大いなものではねえだがなす、むかしから、それを逢魔沼《おうまぬま》と云うほどでの、樹木が森々《しんしん》として凄《すご》いでや、めったに人が行がねえもんだで、山奥々々というだがね。」
 と額を暗く俯向《うつむ》いた。が、煙管《きせる》を落して、門――いや、門も何もない、前通りの草の径《こみち》を、向うの原越しに、差覗《さしのぞ》くがごとく、指をさし、
「あの山を一つ背後《うしろ》へ越した処だで、沢山《たんと》遠い処ではねえが。」
 と言う。
 その向う山の頂に、杉|檜《ひのき》の森に包まれた、堂、社《やしろ》らしい一地がある。
「……途中でも、気が着いたが。」
 水の影でも映りそうに、その空なる樹《こ》の間《ま》は水色に澄んで青い。
「沼は、あの奥に当るのかね。」
「えへい、まあ、その辺の見当ずら。」
 と、掌をもじゃもじゃと振るのが、枯葉が乱れて、その頂の森を掻乱《かきみだ》すように見え、
「何かね、その赤い化もの……」
「赤いのが化けものじゃあない――お爺さん。」
「はあ、そうけえ。」
 と妙に気の抜けた返事をする。
「……だから、私が――じゃあ、その阿武沼、逢魔沼か。そこへ、あの連中は行ったんだろうか、沼には変った……何か、可恐《おそろし》い、可怪《あやし》い事でもあるのかね。饂飩酒場の女房が、いいえ、沼には牛鬼が居るとも、大蛇《おろち》が出るとも、そんな風説《うわさ》は近頃では聞きませんが、いやな事は、このさきの街道――畷《なわて》の中にあった、というんだよ。寺の前を通る道は、古い水戸街道なんだそうだね。」
「はあ、そうでなす。」
「ぬかるみを目の前にして……さあ、出掛けよう。で、ここへ私が来る道だ。何が出ようとこの真昼間《まっぴるま》、気にはしないが、もの好きに、どんな可恐《おそろし》い事があったと聞くと、女給と顔を見合わせてね、旦那《だんな》、殿方には何でも
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