ろよろ》して、しなやかな姿を揉《も》み、しばらく争っているようでありました。けれども、また、颯《さっ》と駈け出して、あわやという中《うち》に影も形も見失ったのでありまする。
 処へ、かの魚津の沖の名物としてありまする、蜃気楼《しんきろう》の中の小屋のようなのが一軒、月夜に灯《ともし》も見えず、前途に朦朧《もうろう》として顕《あらわ》れました。
 小宮山は三蔵法師を攫《さら》われた悟空という格で、きょろきょろと四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しておりましたが、頂は遠く、四辺《あたり》は曠野《こうや》、たとえ蝙蝠の翼に乗っても、虚空へ飛び上る法ではあるまい、瞬《またたき》一つしきらぬ中《うち》、お雪の姿を隠したは、この家の内に相違ないぞ、這奴《こやつ》! 小川山《しょうせんざん》の妖怪ござんなれと、右から左へ、左から右へ取って返して、小宮山はこの家の周囲《まわり》をぐるぐると廻って窺《うかが》いましたが、あえて要害を見るには当らぬ。何の蝸牛《ででむし》みたような住居《すまい》だ、この中に踏み込んで、罷《まか》り違えば、殻を背負《しょ》っても逃げられると、高を括《くく》って度胸が坐ったのでありますから、威勢よく突立《つッた》って凜々《りんりん》とした大音声。
「お頼み申す、お頼み申す! お頼み申す※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 と続けざまに声を懸けたが、内は森《しん》として応《こたえ》がない、耳を澄ますと物音もしないで、かえって遠くの方で、化けた蛙《かわず》が固まって鳴くように、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。と百万遍。眉を顰《ひそ》めた小宮山は、癪《しゃく》に障るから苛立《いらだ》って喚《わめ》いたり。
「お頼み申す。」
 すると、どうでございましょう、鼻ッ先の板戸が音もしないで、すらりと開く。
「騒々しいじゃないかね。」
 顔を出したのが、鼻の尖《とが》った、目の鋭い、可恐《おそろ》しく丈《せ》の高い、蒼い色の衣服《きもの》を着た。凄《すご》い年増《としま》。一目見ても見紛う処はない、お雪が話したそれなんで。
 小宮山は思わず退《すさ》った、女はその我にもあらぬ小宮山の天窓《あたま》から足の爪先《つまさき》まで、じろりと見て、片頬笑《かたほわらい》をしたから可恐《おそろ》しいや。
「おや、おいでなさい、柏屋のお客だね。」
 言語道断、先《せん》を越されて小宮山はとぼんと致し、
「へい。」と言って、目をぱちくりするばかりでありまする。
「まあ、御苦労様だったね。さっきから来るだろうと思って、どんなに待っていたか知れないよ。さあまあこっちへお上りなさい、少し用があるから。」
 と言った、文句が気に入らないね、用があるなんざ容易でなさそう。

       十六

 相手は女だ、城は蝸牛《ででむし》、何程の事やある、どうとも勝手にしやがれと、小宮山は唐突《だしぬ》かれて、度胆《どぎも》を掴《つか》まれたのでありますから、少々捨鉢の気味これあり、臆《おく》せず後に続くと、割合に広々とした一間へ通す。燈火《ともしび》はありませんが暗いような明るいような、畳の数もよく見える、一体その明《あかり》がというと、女が身に纏《まと》っている、その真蒼《まっさお》な色の着物から膚《はだえ》を通して、四辺《あたり》に射拡《さしひろ》がるように思われるのでありまする。
「ちょいと託《ことづ》ける事があるのだから、折角見えたものを情《すげ》なく追帰すのも、お気の毒だと思って、通して上げましたがね、熟《じっ》として待っていなさい。私の方に支度があるのだから、お前さんまた大きな声を出したり、威張ったり、お騒ぎだと為《ため》になりませんよ。」
 と頭から呑んでかかって、そのままどこかへ、ずい。
 呑まれた小宮山は、怪しい女の胃袋の中で消化《こな》れたように、蹲《つくば》ってそれへ。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、風が引いたり寄せたりして聞えまする、百万遍。
 忌々《いまいま》しいなあ、道中じゃ弥次郎兵衛《やじろべえ》もこれに弱ったっけ、耐《たま》ったものではないと、密《そっ》と四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しますると、塵《ちり》一ッ葉《ぱ》も目を遮らぬこの間の内に床が一つ、草を銜《くわ》えた神農様の像が一軸|懸《かか》っておりまするので、小宮山は訳が解らず、何でもこれは気を落着けるにしく事なしだと、下ッ腹へ力を入れて控えておりまする。またしても百万遍。小宮山はそれを聞くと悪寒がするくらい、聞くまい、聞くまいとする耳へ、ひいひい女の泣声が入りました。屹《きっ》となって、さあ始めやがった、あン畜生、また肋《あばら》の骨で遣ってるな、このままじゃ居られないと、突立《つッた》ちました小宮山は、早く既にお雪が話の内の一員に、化しおおしたのでありまする。
 その場へ踏み込み扶《たす》けてくりょうと、いきなり隔《へだて》の襖《ふすま》を開けて、次の間へ飛込むと、広さも、様子も同じような部屋、また同じような襖がある。引開けると何もなく、やっぱり六畳ばかりの、広さも、様子も、また襖がある。がたりと開ける、何もなくて少しも違わない部屋でありまする。
 阿房宮より可恐《おそろ》しく広いやと小宮山は顛倒《てんとう》して、手当り次第に開けた開けた。幾度遣っても笥《たかんな》の皮を剥《む》くに異ならずでありまするから、呆れ果てて※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と尻餅、茫然《ぼんやり》四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しますると、神農様の画像を掛けた、さっき女が通したのと同じ部屋へ、おやおやおや。また南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耳に入ると、今度は小宮山も釣込まれて、思わず南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 その時すらりと襖を開け、
「誰方《どなた》だい、今お騒ぎなすったのは。」
「へい。」といった、後はもうお念仏になりそうな、小宮山は恐る恐る、女の微笑《ほほえ》んでおります顔を見て、どうかこうか、まあ殺されずに済みそうだと、思うばかりでございまする。
「一体|物好《ものずき》でこんな所へ入って来たお前さんは、怖いものが見たいのだろう。少々ばかりね。」
「いえ、何。」と口の内。
「まあ、おいでなさい。」
 妾《わらわ》に跟《つ》いてこっちへと、宣示《のりしめ》すがごとく大様に申して、粛然と立って導きますから、詮方《せんかた》なしに跟《つ》いて行く。土間が冷く踵《くびす》に障ったと申しますると、早や小宮山の顔色|蒼然《そうぜん》!
 話に聴いた、青色のその燈火《ともしび》、その台、その荒筵《あらむしろ》、その四辺《あたり》の物の気勢《けはい》。
 お雪は台の向《むこう》へしどけなく、崩折《くずお》れて仆《たお》れていたのでありまする。女は台の一方へ、この形《かた》なしの江戸ッ児を差置いて、一方へお雪を仆した真中《まんなか》へぬッくと立ち、袖短《そでみじか》な着物の真白《まっしろ》な腕を、筵の上へ長く差し伸《のば》して、ざくりと釘を一ト掴《つかみ》。
「どうだね、お客様。」
「どう致しまして。」
 小宮山は慇懃《いんぎん》に辞退をいたしまする。

       十七

「これを知っていなさるかえ。」
 と二の腕を曲げて、件《くだん》の釘を乳の辺へ齎《もたら》して、掌《てのひら》を拡げて据えた。
「どう致しまして。」
「知らない?」
「いえ、何、存じております。」
「それじゃこれは。」
「へい。」
「女の脱髪《ぬけがみ》。」
 小宮山は慌《あわただ》しく、
「どう致しまして。」
「それじゃ御覧。」
 と撮《つま》んで宙で下げたから、そそげた黒髪がさらさらと動きました。
「いえ、何、存じております。」
「これは。」
「存じております。」
「それから。」
「存じております。」
「それでは、何の用に立つんだか、使い方を知っているのかえ。」
 迂濶《うっかり》知らないなぞと言おうものなら、使い方を見せようと、この可恐《おそろ》しい魔法の道具を振廻されては大変と、小宮山は逸早《すばや》く、
「ええ、もう存じておりますとも。」
 と一際念入りに答えたのでありまする。言葉尻も終らぬ中《うち》、縄も釘もはらはらと振りかかった、小宮山はあッとばかり。
 ちょいと皆様に申上げまするが、ここでどうぞ貴方がたがあッと仰有《おっしゃ》った時の、手附、顔色《かおつき》に体の工合《ぐあい》をお考えなすって下さいまし。小宮山は結局《つまり》、あッと言った手、足、顔、そのままで、指の尖《さき》も動かなくなったのでありまする。
「よく御存じでございましたね。」
 と嘲弄《ちょうろう》するごとく、わざと丁寧に申しながら、尻目に懸けてにたりとして、向《むこう》へ廻り、お雪の肩へその白い手を掛けました。
 畜生! 飛附いて扶《たす》けようと思ったが、動けるどころの沙汰ではないので、人はかような苦しい場合にも自ら馬鹿々々しい滑稽の趣味を解するのでありまする、小宮山はあまりの事に噴出《ふきだ》して、我と我身を打笑い、
「小宮山何というざまだ、まるでこりゃ木戸銭は見てのお戻りという風だ、東西、」
 と肚《はら》の内。
 女はお雪の肩を揺動《ゆりうご》かしましたが、何とも不思議な凄《すご》い声で、
「雪や、苦しいか。」
 お雪はいとど俯向《うつむ》いていた顔を、がっくりと俯向けました。
「うむ、もう可い、今夜は酷《ひど》い目に逢わしやしないから、心配をする事はないんだよ。これまで手を変え、品を変え、色々にしてみたが、どうしてもお前は思い切らない、何思い切れないのだな、それならそれで可いようにして上げようから。」
 と言聞かしながら、小宮山の方を振向いたのでありまする。
「お客様、お前は性悪《しょうわる》だよ、この子がそれがためにこの通りの苦労をしている、篠田と云う人と懇意なのじゃないか、それだのにさ、道中荷が重くなると思って、託《ことづけ》も聞こうとはせず、知らん顔をして聞いていたろう。」
 と鋭い目で熟《じっ》と見られた時は、天窓《あたま》から、悚然《ぞっ》として、安本|亀八《かめはち》作、小宮山良助あッと云う体《てい》にござりまする活人形《いきにんぎょう》へ、氷を浴《あび》せたようになりました。
「その換《かわ》り少しばかり、重い荷を背負《しょ》わして上げるから、大事にして東京まで持って行きなさい。託《ことづけ》というのはそれなんだがね、お雪はとても扶《たすか》らないのだから、私も今まで乗懸《のりかか》った舟で、この娘の魂をお前さんにおんぶをさして上げるからね、密《そっ》と篠田の処まで持って行くのだよ。さぞまあお邪魔でございましょうねえ。」

       十八

 小宮山がその形で突立《つッた》ったまま、口も利けないのに、女は好《すき》な事をほざいたのでありまする。
 それから女は身に纏《まと》った、その一重《ひとえ》の衣《きもの》を脱ぎ捨てまして、一糸も掛けざる裸体になりました。小宮山は負惜《まけおしみ》、此奴《こいつ》温泉場の化物だけに裸体だなと思っておりまする。女はまた一つの青い色の罎《びん》を取出しましたから、これから怨念が顕《あらわ》れるのだと恐《おそれ》を懐《いだ》くと、かねて聞いたとは様子が違い、これは掌《てのひら》へ三滴《みたらし》ばかり仙女香《せんじょこう》を使う塩梅《あんばい》に、両の掌《てのひら》でぴたぴたと揉《も》んで、肩から腕へ塗り附け、胸から腹へ塗り下げ、襟耳の裏、やがては太股《ふともも》、脹脛《ふくらはぎ》、足の爪先まで、隈《くま》なく塗り廻しますると、真直《まっすぐ》に立上りましたのでありまする。
 小宮山は肚《はら》の内で、
「東西。」
 女はそう致して、的面《まとも》に台に向いまして、ちちんぷいぷい、御代《ごよ》の御宝《おんたから》と言ったのだか何だか解りませぬが、口に怪しい呪文を唱えて、ばさりばさりと双《ふた
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