ろりと見た、その白髪《しらが》というものが一通りではない、銀の針金のようなのが、薄《すすき》を一束刈ったように、ざらざらと逆様に立った。お小姓はそれッきり。
さあ、お奥では大騒動、可恐《おそろ》しい大熱だから伝染《うつッ》ても悪し、本人も心許《こころもと》ないと云うので、親許へ下げたのだ。医者はね、お前、手を放してしまったけれども、これは日ならず復《なお》ったよ。
我に反《かえ》るようになってから、その娘の言うのには、現《うつつ》の中ながらどうかして病が復したいと、かねて信心をする湯島の天神様へ日参をした、その最初の日から、自分が上がろうという、あの男坂の中程に廁《かわや》で見た穢ない婆が、掴《つか》み附きそうにして控えているので、悄然《しょんぼり》と引返す。翌日《あくるひ》行くとまた居やがる。行っちゃ帰り、行っちゃ帰り、ちょうど二十日《はつか》の間、三七二十一日目の朝、念《おもい》が届いてお宮の鰐口《わにぐち》に縋《すが》りさえすれば、命の綱は繋《つな》げるんだけれども、婆に邪魔をされてこの坂が登れないでは、所詮こりゃ扶《たす》からない、ええ悔しいな、たとえ中途で取殺されるまでも、お参《まいり》をせずに措《お》くものかと、切歯《はがみ》をして、下じめをしっかりとしめ直し、雪駄《せった》を脱いですたすたと登り掛けた。
遮っていた婆は、今娘の登って来るのを、可恐《おそろ》しい顔で睨《にら》め附けたが、ひょろひょろと掴《つかま》って、冷い手で咽《のど》をしめた、あれと、言ったけれども、もう手足は利かず、講談でもよく言うがね、既に危《あやう》きそこへ。」
十三
「上《かみ》の鳥居の際へ一人出て来たのが、これを見るとつかつかと下りた、黒縮緬三ツ紋の羽織、仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》、黒|羽二重《はぶたえ》の紋附を着て宗十郎|頭巾《ずきん》を冠《かぶ》り、金銀を鏤《ちりば》めた大小、雪駄|穿《ばき》、白足袋で、色の白い好《い》い男の、年若な武士で、大小などは旭《ひ》にきらきらして、その立派さといったらなかったそうだよ。石段の上の方から、ずって寄って、
(推参な、婆あ見苦しい。)と言いさま、お前、疫病神の襟首を取って、坂の下へずでんどうと逆様に投げ飛ばした、可い心持じゃないか。お小姓の難有《ありがた》さ、神とも仏ともただもう手を合せて、その武士を伏拝んだと思うと、我に返ったという。
それから熱が醒《さ》めて、あの濡紙を剥《は》ぐように、全快をしたんだがね、病気の品に依っては随分そういう事が有勝《ありがち》のもの。
お前の女に責められるのも、今の話と同じそれは神経というものなんだから、しっかりして気を確《たしか》に持って御覧、大丈夫だ、きっとそんなものが連れ出しに来るなんて事はありゃしない。何も私が学者ぶって、お前さんがそれまでに判然した事を言うんだもの、嘘だの、馬鹿々々しいなどとは決して思うんじゃないよ。可いかい、姐さん、どうだ、解ったかね。」
と小宮山は且つ慰め、且つ諭したのでありまする、そう致しますと、その物語の調子も良く、取った譬《たとえ》も腑《ふ》に落ちましたものと、見えて、
「さようでございますかね。」
と申した事は纔《わずか》ながら、よく心も鎮って、体も落着いたようでありまする。
「そうとも、全くだ。大丈夫だよ、なあにそんなに気に懸ける事はない、ほんのちょいと気を取直すばかりで、そんな可怪《あや》しいものは西の海へさらりださ。」
「はい、難有《ありがと》う存じます、あのう、お蔭様で安心を致しましたせいか、少々眠くなって参ったようでざいますわ。」
と言い難《にく》そうに申しました。
「さあさあ、寐《ね》るが可い、寐るが可い。何でも気を休めるが一番だよ、今夜は附いているから安心をおし。」
「はい。」
と言ってお雪は深く頷《うなず》きましたが、静《しずか》に枕を向《むこう》へ返して、しばらくはものも言わないでおりましたが、また密《そっ》と小宮山の方へ向き直り、
「あのう、壁の方を向いておりますと、やはりあすこから抜け出して来ますようで、怖くってなりませんから、どうぞお顔の方に向かしておいて下さいましな。」
「うむ、可いとも。」
「でございますけれども……。」
「どうした。」
「あのう、極《きまり》が悪うございますよ。」
とほんのり瞼《まぶた》を染めながら、目を塞《ふさ》いでしかも頼母《たのも》しそう、力としまするよう、小宮山の胸で顔を隠すように横顔を見せ、床を隔てながら櫛巻の頭《つむり》を下げ、口の上|辺《あたり》まで衾《ふすま》の襟を引寄せましたが、やがてすやすやと寐入ったのでありまする。
その時の様子は、どんなにか嬉しそうであった――と、今でも小宮山が申しまする。さて小宮山は、勿論寐られる訳ではありませぬから、しばらくお雪の様子を見ていたのでありまする。やや初夜|過《すぎ》となりました。
山中の湯泉宿《ゆやど》は、寂然《しん》として静《しずま》り返り、遠くの方でざらりざらりと、湯女《ゆな》が湯殿を洗いながら、歌を唄うのが聞えまする。
この界隈《かいわい》近国の芸妓《げいしゃ》などに、ただこの湯女歌ばかりで呼びものになっているのがありますくらい。怠けたような、淋しいような、そうかというと冴えた調子で、間《あい》を長く引張《ひっぱ》って唄いまするが、これを聞くと何となく睡眠剤を服《の》まされるような心持で、
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桂清水《かつらしみず》で手拭《てぬぐい》拾た、 これも小川の温泉《ゆ》の流れ。
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などという、いわんや巌《いわ》に滴るのか、湯槽《ゆぶね》へ落つるのか、湯気の凝ったのか、湯女歌の相間《あいま》々々に、ぱちゃんぱちゃんと響きまするにおいてをや。
十四
これへ何と、前触《まえぶれ》のあった百万遍を持込みましたろうではありませんか、座中の紳士貴婦人方、都育ちのお方にはお覚えはないのでありまするが、三太やあい、迷《まい》イ児《ご》の迷イ児の三太やあいと、鉦《かね》を叩いて山の裾を廻る声だの、百万遍の念仏などは余り結構なものではありませんな。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》……南無阿弥陀……南無阿弥陀。
亭主はさぞ勝手で天窓《あたま》から夜具をすっぽりであろうと、心に可笑《おか》しく思いまする、小宮山は山気|膚《はだ》に染み渡り、小用《こよう》が達《た》したくなりました。
折角可い心地で寐《ね》ているものを起しては気の毒だ。勇士は轡《くつわ》の音に目を覚ますとか、美人が衾《ふすま》の音に起きませぬよう、そッと抜出して用達しをしてまいり、往復《ゆきかえり》何事もなかったのでありまするが、廊下の一方、今小宮山が行った反対の隅の方で、柱が三つばかり見えて、それに一つ一つ掛けてあります薄暗い洋燈《ランプ》の間を縫って、ひらひらと目に遮った、不思議な影がありました。それが天井の一尺ばかり下を見え隠れに飛びますから、小宮山は驚いて、入《い》り掛けた座敷の障子を開けもやらず、はてな、人魂《ひとだま》にしては色が黒いと、思いまする間も置かせず、飛ぶものは風を煽《あお》って、小宮山が座敷の障子へ、ばたりと留《とま》った。これは、これは、全くおいでなすったか知らんと、屹《きっ》と見まする、黒い人魂に羽が生えて、耳が出来た、明《あきら》かに認めましたのは、ちょいと鳶《とび》くらいはあろうという、大きな蝙蝠《こうもり》であります。
そいつが羽撃《はばたき》をして、ぐるりぐるりと障子に打附《ぶッつ》かって這《は》い廻る様子、その動くに従うて、部屋の中の燈火《ともしび》が、明《あかる》くなり暗くなるのも、思いなし心持のせいでありましょうか。
さては随筆に飛騨《ひだ》、信州などの山近な片田舎に、宿を借る旅人が、病もなく一晩の内に息の根が止《とま》る事がしばしば有る、それは方言|飛縁魔《ひのえんま》と称《とな》え、蝙蝠に似た嘴《くちばし》の尖《とんが》った異形なものが、長襦袢を着て扱帯《しごき》を纏《まと》い、旅人の目には妖艶《あでやか》な女と見えて、寝ているものの懐へ入《い》り、嘴を開けると、上下《うえした》で、口、鼻を蔽《おお》い、寐息を吸って吸殺すがためだとございまする。あらぬか、それか、何にしても妙ではない、かようなものを間の内へ入れてはならずと、小宮山は思案をしながら、片隅を五寸か一尺、開けるが早いか飛込んで、くるりと廻って、ぴしゃりと閉め、合せ目を押え附けて、どっこいと踏張《ふんば》ったのでありまする。しばらく、しっかりと押え附けて、様子を窺《うかが》っておりましたが、それきり物音もしませぬので、まず可《よ》かったと息を吐《つ》き、これから静《しずか》に衾《しとね》の方を向きますると、あにはからんやその蝙蝠は座敷の中をふわりふわり。
南無三宝《なむさんぽう》と呆気《あっけ》に取られて、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った鼻っ先を、件《くだん》の蝙蝠は横撫《よこなで》に一つ、ばさりと当てて向《むこう》へ飛んだ。
何様猫が冷たい処をこすられた時は、小宮山がその時の心持でありましょう。
嚔《くしゃみ》もならず、苦り切って衝立《つッた》っておりますると、蝙蝠は翼を返して、斜《ななめ》に低う夜着の綴糸《とじいと》も震うばかり、何も知らないですやすやと寐ている、お雪の寝姿の周囲《ぐるり》をば、ぐるり、ぐるり、ぐるりと三度。縫って廻られるたびに、ううむ、ううむ、うむと幽《かすか》に呻《うめ》いたと、見るが否や、萎《しお》れ伏したる女郎花《おみなえし》が、無慙《むざん》や風に吹き乱されて、お雪はむッくと起上りましたのでありまする。小宮山は論が無い、我を忘れて後《しりえ》に※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と坐りました。
蝙蝠は飜《ひるがえ》って、向側の障子の隙間から、ひらひらと出たと思うと、お雪が後に跟《つ》いてずっと。
蚊帳を出《い》でてまだ障子あり夏の月、雨戸を開けるでもなく、ただ風の入るばかりの隙間から、体がすっと細くなり、水に映《う》つる柳の蔭の隠れたように、ふと外へ出て見えなくなりましたと申しますな。勿論、蝙蝠に引出されたんで。
十五
小宮山は切歯《はがみ》をなして、我|赤樫《あかがし》を割って八角に削りなし、鉄の輪十六を嵌《は》めたる棒を携え、彦四郎定宗《ひこしろうさだむね》の刀を帯びず、三池の伝太|光世《みつよ》が差添《さしぞえ》を前半《まえはん》に手挟《たばさ》まずといえども、男子だ、しかも江戸ッ児だ、一旦請合った女をむざむざ魔に取られてなるものかと、追駈《おっか》けざまに足踏をしたのでありまする。あいにく神通がないので、これは当然《あたりまえ》に障子を開け、また雨戸を開けて、縁側から庭へ寝衣《ねまき》姿、跣足《はだし》のままで飛下りる。
戸外《おもて》は真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂《おいしげ》った草が一筋に靡《なび》いて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。
小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんず勢《いきおい》。
「おうい、おうい、お雪さん、お雪さん、お雪さん。」
と声を限り、これや串戯《じょうだん》をしては可《い》けないぜと、思わず独言《ひとりごと》を言いながら、露草を踏《ふみ》しだき、薄《すすき》を掻分《かきわ》け、刈萱《かるかや》を押遣って、章駄天《いだてん》のように追駈けまする、姿は草の中に見え隠れて、あたかもこれ月夜に兎の踊るよう。
「お雪さん、おうい、お雪さん。」
間《あわい》もやや近くなり、声も届きましたか、お雪はふと歩《あゆみ》を停《とど》めて、後を振返ると両の手を合せました。助けてくれと云うのであろう、哀れさも、不便《ふびん》さもかばかりなるは、と駈け着ける中《うち》、操《あやつり》の糸に掛けられたよう、お雪は、左へ右へ蹌踉《よ
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