》なら、あれとか、きゃッとか声を立てますのでございますが、どう致しましたのでございますか、別に怖いとも思いませんと、こう遣って。」
と枕に顔を仰向《あおむ》けて、清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って熟と瞳を据えました。小宮山は悚然《ぞっ》とする。
「そのお神さんが、不思議ではありませんか、ちゃんと私の名を存じておりまして、
(お雪や、お前、あんまり可哀そうだから、私がその病気を復《なお》して上げる、一所においで。)
と立ったまま手を引くように致しましたが、いつの間にやら私の体は、あの壁を抜けて戸外《おもて》へ出まして、見覚《みおぼえ》のある裏山の方へ、冷たい草原の上を、貴方、跣足《はだし》ですたすた参るんでございます。」
十
「零余子《むかご》などを取りに参ります処で、知っておりますんでございますが、そんな家《うち》はある筈《はず》はございません、破家《あばらや》が一軒、それも茫然《ぼんやり》して風が吹けば消えそうな、そこが住居《すまい》なんでございましょう。お神さんは私を引入れましたが、内に入りますと貴方どうでございましょう、土間の上に台があって、荒筵《あらむしろ》を敷いてあるんでございますよ、そこらは一面に煤《すす》ぼって、土間も黴《かび》が生えるように、じくじくして、隅の方に、お神さんと同じ色の真蒼《まっさお》な灯《あかり》が、ちょろちょろと点《とも》れておりました。
(どうだ、お前ここにあるものを知ってるかい。)とお神さんは、その筵の上にあるものを、指《ゆびさし》をして見せますので、私は恐々《こわごわ》覗《のぞ》きますと、何だか厭《いや》な匂のする、色々な雑物《ぞうもつ》がございましたの。
(これはの、皆人を磔《はりつけ》に上げる時に結えた縄だ、)って扱《しご》いて見せるのでございます。私はもう、気味が悪いやら怖いやら、がたがた顫《ふる》えておりますと、お神さんがね、貴方、ざくりと釘を掴《つか》みまして、
(この釘は丑《うし》の時参《ときまいり》が、猿丸の杉に打込んだので、呪《のろい》の念が錆附《さびつ》いているだろう、よくお見。これはね大工が家を造る時に、誤って守宮《やもり》の胴の中へ打込んだものじゃ、それから難破した船の古釘、ここにあるのは女の抜髪、蜥蜴《とかげ》の尾の切れた、ぴちぴち動いてるのを見なくちゃ可《い》けない。)と差附けられました時は、ものも言われません。
(お雪、私がこれを何にする、定めしお前は知っていよう。)どうして私が知っておりましょう。
(うむ、知ってる、知っている筈じゃないか、どうだ。)と責めるように申しますから、私はどうなる事でしょうと、可恐《おそろ》しさのあまり、何にも存じませんと、自分にも聞えませんくらい。
(何存ぜぬことがあるものか、これはな、お雪、お前の体に使うのだ、これでその病気を復《なお》してやる。)と屹《きっ》と睨《にら》んで言われましたから、私はもう舌が硬《こわば》ってしまいましたのでございます。お神さんは落着き払って、何か身繕《みづくろい》をしましたが、呪文のようなことを唱えて、その釘だの縄だのを、ばらばらと私の体へ投附けますじゃありませんか。
はッと思いますと、手も足も顫える事が出来なくなったので、どうでございましょう、そのまま真直《まっすぐ》に立ったのでございますわ。
そう致しますとお神さんは、棚の上からまた一つの赤い色の罎《びん》を出して、口を取ってまた呪文を唱えますとね、黒い煙が立登って、むらむらとそれが、あの土間の隅へ寛《ひろ》がります、とその中へ、おどろのような髪を乱して、目の血走った、鼻の尖《とんが》った、痩《やせ》ッこけた女が、俯向《うつむ》けなりになって、ぬっくり顕《あらわ》れたのでございますよ。
(お雪や、これは嫉妬《しっと》で狂死《くるいじに》をした怨念《おんねん》だ。これをここへ呼び出したのも外じゃない、お前を復してやるその用に使うのだ。)と申しましてね、お神さんは突然《いきなり》袖を捲《まく》って、その怨念の胸の処へ手を当てて、ずうと突込《つッこ》んだ、思いますと、がばと口が開《あ》いて、拳《こぶし》が中へ。」
と言懸けました、声に力は籠《こも》りましたけれども、体は一層力無げに、幾度も溜息を吐《つ》いた、お雪の顔は蒼ざめて参りまする。小宮山は我を忘れて枕を半《なかば》。
「そのまま真白《まっしろ》な肋骨《あばらぼね》を一筋、ぽきりと折って抜取りましてね。
(どうだ、手前《てめえ》が嫉妬で死んだ時の苦しみは、何とこのくらいのものだったかい。)と怨念に向いまして、お神さんがそう云いますと、あの、その怨霊《おんりょう》がね、貴方、上下《うえした》の歯を食い緊《しば》って、(ううむ、ううむ。)と二つばかり、合点々々を致したのでございますよ。
(可《よ》し。)とお神さんが申しますと、怨念はまたさっきのような幅の広い煙となって、それが段々罎の口へ入ってしまいました。
それからでございますが。」
とお雪は打戦《うちわなな》いて、しばらくは口も利けません様子。
十一
さてその時お雪が話しましたのでは、何でもその孤家《ひとつや》の不思議な女が、件《くだん》の嫉妬で死んだ怨霊の胸を発《あば》いて抜取ったという肋骨《あばらぼね》を持って前《ぜん》申しまする通り、釘だの縄だのに、呪《のろ》われて、動くこともなりませんで、病み衰えておりますお雪を、手ともいわず、胸、肩、背ともいわず、びしびしと打ちのめして、
(さあどうだ、お前、男を思い切るか、それを思い切りさえすれば復《なお》る病気じゃないか、どうだ、さあこれでも言う事を聞かないか、薬は利かないか。)
と責めますのだそうでありまする、その苦しさが耐えられませぬ処から、
(御免なさいまし、御免なさいまし、思い切ります。)
と息の下で詫びまする。それでは帰してやると言う、お雪はいつの間にか旧《もと》の閨《ねや》に帰っております。翌晩《あくるばん》になるとまた昨夜《ゆうべ》のように、同じ女が来て手を取って引出して、かの孤家へ連れてまいり、釘だ、縄だ、抜髪だ、蜥蜴《とかげ》の尾だわ、肋骨《あばらぼね》だわ、同じ事を繰返して、骨身に応《こた》えよと打擲《ちょうちゃく》する。
(お前、可い加減な事を言って、ちっとも思い切る様子はないではないか。さあ、思い切れ、思い切ると判然《はっきり》言え、これでも薬はまだ利かぬか。)
と言うのだそうでありますな。
申すまでもありません、お雪はとても辛抱の出来る事ではないのですから、きっと思い切ると言う。
それではと云って帰しまする。
翌晩《あくるばん》も、また翌晩も、連夜《まいよ》の事できっと時刻を違《たが》えず、その緑青で鋳出《いだ》したような、蒼い女が遣って参り、例の孤家へ連れ出すのだそうでありますが、口頭《くちさき》ばかりで思い切らない、不埒《ふらち》な奴、引摺《ひきず》りな阿魔めと、果《はて》は憤《いか》りを発して打ち打擲を続けるのだそうでございまして。
お雪はこれを口にするさえ耐えられない風情に見えました。
「貴方、どうして思い切れませんのでございましょう。私は余り折檻《せっかん》が辛うございますから、確《たしか》に思い切りますと言うんですけれども、またその翌晩《あくるばん》同じ事を言って苦しめられます時、自分でも、成程と心付きますが、本当は思い切れないのでございますよ。
どうしてこれが思い切れましょう、因縁とでも申しますのか、どう考え直しましても、叱ってみても宥《なだ》めてみても、自分が自由にならないのでございますから、大方今に責め殺されてしまいましょう。」
と云う、顔の窶《やつ》れ、手足の細り、たゆげな息使い、小宮山の目にも、秋の蝶の日に当ったら消えそうに見えまして、
「死ぬのはちっとも厭《いと》いませぬけれども、晩にまた酷《ひど》い目に逢うのかと、毎日々々それを待っているのが辛くってなりません。貴方お察し遊ばして。
本当に慾《よく》も未来も忘れましてどうぞまあ一晩安々|寐《ね》て、そうして死にますれば、思い置く事はないと存じながら、それさえ自由《まま》になりません、余りといえば悔しゅうございましたのに、こうやってお傍《そば》に置いて下さいましたから、いつにのう胸の動悸《どうき》も鎮りまして、こんな嬉しい事はございませぬ。まあさぞお草臥《くたびれ》なさいまして、お眠うもございましょうし、お可煩《うるそ》うございましょうのに、つい御言葉に甘えまして、飛んだ失礼を致しました。」
人にも言わぬ積り積った苦労を、どんなに胸に蓄《たくわ》えておりましたか、その容体ではなかなか一通りではなかろうと思う一部始終を、悉《くわ》しく申したのでありまする。
さっきから黙然《もくねん》として、ただ打頷《うちうなず》いておりました小宮山は、何と思いましたか力強く、あたかも虎を搏《てうち》にするがごとき意気込で、蒲団の端を景気よくとんと打って、むくむくと身を起し、さも勇ましい顔で、莞爾《にっこり》と笑いまして、
「訳はない。姉さん、何の事《こっ》たな。」
十二
「皆《みんな》そりゃ熱のせいだ、熱だよ。姉さんも知ってるだろうが、熱じゃ色々な事を見るものさ。疫《えやみ》の神だの疱瘡《ほうそう》の神だのと、よく言うじゃないか、みんなこれは病人がその熱の形を見るんだっさ。
なかにも、これはちいッと私が知己《ちかづき》の者の維新前後の話だけれども、一人、踊で奉公をして、下谷《したや》辺のあるお大名の奥で、お小姓を勤めたのがね、ある晩お相手から下って、部屋へ、平生《ふだん》よりは夜が更けていたんだから、早速お勤《つとめ》の衣裳《いしょう》を脱いでちゃんと伸《の》して、こりゃ女の嗜《たしなみ》だ、姉さんなんぞも遣るだろうじゃないか。」
「はい。」
「まあお聞きそれから縞《しま》のお召縮緬《めしちりめん》、裏に紫縮緬の附いた寝衣《ねまき》だったそうだ、そいつを着て、紅梅の扱帯《しごき》をしめて、蒲団の上で片膝を立てると、お前、後毛《おくれげ》を掻上《かきあ》げて、懐紙で白粉《おしろい》をあっちこっち、拭《ふ》いて取る内に、唇に障《さわ》るとちょいと紅《べに》が附いたろう。お小姓がね、皺《しわ》を伸してその白粉の着いた懐紙を見ていたが、何と思ったか、高島田に挿している銀の平打の簪《かんざし》、※[#丸い、407−8]《まるにいのじ》が附いている、これは助高屋《すけたかや》となった、沢村|訥升《とつしょう》の紋なんで、それをこのお小姓が、大層|贔屓《ひいき》にしたんだっさ。簪をぐいと抜いてちょいと見るとね、莞爾《にっこり》笑いながら、そら今口紅の附いた懐紙にぐるぐると巻いて、と戴《いただ》いたとまあお思い。
可いかい、それを文庫へ了《しま》って、さあ寝支度も出来た、行燈《あんどう》の灯《ひ》を雪洞《ぼんぼり》に移して、こいつを持つとすッと立って、絹の鼻緒の嵌《すが》った層《かさ》ね草履をばたばた、引摺って、派手な女だから、まあ長襦袢《ながじゅばん》なんかちらちちとしたろうよ。
長廊下を伝って便所へ行《ゆ》くものだ。矢だの、鉄砲だの、それ大袈裟《おおげさ》な帯が入るのだから、便所は大きい、広い事、畳で二畳位は敷けるのだと云うよ。それへ入ろうとするとね、えへん! ともいわず歌も詠《よ》まないが、中に人のいるような気勢《けはい》がするから、ふと立停《たちどま》った、しばらく待ってても、一向に出て来ない、気を鎮めてよく考えると、なあに、何も入っていはしないようだったっさ。
ええ、姐《ねえ》さん変じゃないか、気が差すだろう。それからそのお小姓は、雪洞を置いて、ばたりと戸を開けたんだ、途端に、大変なものが、お前心持を悪くしては可《い》けない、これがみんな病のせいだ。
戸を開けると一所に、中に真俯向《まうつむ》けになっていた、穢《きたな》い婆《ばばあ》が、何とも云いようのない顔を上げて、じ
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング