ぬかとまさかに魂を託《ことづか》ったとまでは、信じなかったのでありまするけれども、つくづく溜息をしたのであります。
 夜が明けると、一番の上り汽車、これが碓氷《うすい》の隧道《トンネル》を越えます時、その幾つ目であったそうで。
 小宮山は何心なく顔を出して、真暗《まっくら》な道の様子を透《すか》していると、山清水の滴る隧道の腹へ、汽車の室内の灯《ともしび》で、その顔が映ったのでありまする、と並んで女の顔が映りました。確《たしか》にそれがお雪の面影。
 それぎり何事もなく、汽車は川中島を越え、浅間の煙を望み、次第に武蔵《むさし》の平原に近づきまする。
 上野に着いたのは午後の九時半、都に秋風の立つはじめ、熊谷《くまがい》土手から降りましたのがその時は篠《しの》を乱すような大雨でございまして、俥《くるま》の便《たより》も得られぬ処から、小宮山は旅馴れてはいる事なり、蝙蝠傘を差したままで、湯島新花町の下宿へ帰ろうというので、あの切通《きりどおし》へ懸《かか》りました時分には、ぴったり人通りがございません。後《うしろ》から、
「姐さん、参りましょうか、姐さん。」
 と声を懸けたものがある。
 振返って見ると誰も居ませんで、ただざあざッという雨に紛れて、轍《わだち》の音は聞えませぬが、一名の車夫が跟《つ》いて来たのでありました。
 小宮山は慄然《ぎょっ》として、雨の中にそのまま立停《たちどま》って、待てよ、あるいはこりゃ託《ことづか》って来たのかも知れぬと、悚然《ぞっ》としましたが、何しろ、自宅へ背負《しょ》い込んでは妙ならずと、直ぐに歩《あゆみ》を転じて、本郷元町へ参りました。
 ここは篠田が下宿している処でありまする、行馴れている門口《かどぐち》、猶予《ためら》わず立向うと、まだ早いのに、この雨のせいか、もう閉っておりましたが、小宮山は馴れている、この門と並んで、看護婦会がありまする、雨滴《あまだれ》を払いながらその間の路地を入ると、突当《つきあたり》の二階が篠田の座敷、灯も点《つ》いて、寝ない様子。するとまだ声を懸けない先に、二階ではその灯を持って、どこへか出たと見えて、障子が暗くなりました。しばらく待っていても帰りませぬ。
 下へ下りたのであろうも知れぬ、それならばかえって門口で呼ぶ方が早手廻しだと、小宮山はまた引返して参りますと、つい今錠の下りていた下宿屋の戸が、手を掛けると訳もなく開《あ》きましたと申します。
 何事も思わず開けて入り、上框《あがりがまち》に立ちましたが、帳場に寝込んでおりますから、むざとは入らないで、
「篠田、篠田。」
 と高らかに呼《よば》わりますると、三声とは懸けさせず、篠田は早速に下りて来て、
「ああ、今帰ったのかえ、さあさあまあ上りたまえ。」
 と急遽《いそいそ》先に立ちます。小宮山は後に跟《つ》いて二階に上り、座敷に通ると、篠田が洋燈《ランプ》を持ったまま、入口に立停《たちどま》って、内を透《すか》し、
「おや、」と言って、きょろきょろ四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しておりまするが、何か気抜のしたらしい。小宮山はずっと寄って、その背《せな》を叩かぬばかり、
「どうした。」
「もう何も彼《か》も御存じの事だから、ちっとも隠す事はない、ただ感謝するんだがね、君が連れて来て一足先へ入ったお雪が、今までここに居たのに、どこへ行ったろう。」
 と真顔になって申しまする。
 小宮山はまた悚然《ぞっ》とした。
「ええ、お雪さんが、どんな様子で。」
「実は今夜本を見て起きていると、たった今だ、しきりにお頼み申しますと言う女の声、誰に用があって来たのか知らぬが、この雨の中をさぞ困るだろうと、僕が下りて行って開けてやったが、見るとお雪じゃないか。小宮山さんと一所だと言う、体は雨に濡れてびっしょり絞るよう、話は後からと早速ここへ連れて来たが、あの姿で坐っていた、畳もまだ湿っているだろうよ。」
 と篠田はうろうろしてばたばた畳の上を撫でてみまする。この様子に小宮山は、しばらく腕組をして、黙って考えていましたが、開き直ったという形で、
「篠田、色々話はあるが、何も彼も明日《あした》出直して来よう、それまでまあ君心を鎮めて待ってくれ。それじゃ託《ことづか》り物を渡したぜ。」
「ええ。」
「いえ、託《あずか》り物は渡したんだぜ。」
「託り物って何だ。」
「今受取ったそれさ。」
「何を、」と篠田は目も据《すわ》らないで慌てております。
「まあ、受取ったと言ってくれ。ともかくも言ってくれ、後で解る事だから頼む、後生だから。」
 魂の請状《うけじょう》を取ろうとするのでありますから、その掛引は難かしい、無暗《むやみ》と強いられて篠田は夢|現《うつつ》とも弁《わきま》えず、それじゃそうよ、請取った
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