つ》の腕《かいな》を、左右へ真直《まっすぐ》に伸《の》したのを上下《うえした》に動かしました。体がぶるぶるッと顫《ふる》えたと見るが早いか、掻消《かきけ》すごとく裸身《はだかみ》の女は消えて、一羽の大蝙蝠となりましてございまする。
 例のごとくふわふわと両三度土間の隅々を縫いましたが、いきなり俯《うつむ》けになっているお雪の顔へ、顔を押当て、翼でその細い項《うなじ》を抱いて、仰向《あおむ》けに嘴《くちばし》でお雪の口を圧《おさ》えまして、すう、すうと息を吸うのでありまする。
 これを見せられた小宮山は、はッと思って息を引いたが、いかんともする事|叶《かな》わず、依然としてそのあッと云う体《てい》。
 二度三度、五度六度、やや有って息を吸取ったと見えましたが、お雪の体は死んだもののようになってはたと横様に仆《たお》れてしまいました。
 喫驚《びっくり》仰天はこれのみならず、蝙蝠がすッと来て小宮山の懐へ、ふわりと入《い》りましたので、再びあッと云って飛び上ると同時に、心付きましたのは、旧《もと》の柏屋の座敷に寝ていたのでありまする。
 大息《といき》を吐《つ》いて、蒲団の上へ起上った、小宮山は、自分の体か、人のものか、よくは解らず、何となく後《うしろ》見らるるような気がするので、振返って見ますると、障子が一枚、その外に雨戸が一枚、明らさまに開《あ》いて月が射《さ》し、露なり、草なり、野も、山も、渺々《びょうびょう》として、鶏《とり》、犬の声も聞えませぬ。何よりもまず気遣わしい、お雪はと思う傍《そば》に、今息を吸取られて仆《たお》れたと同じ形になって、生死《しょうじ》は知らず、姿ばかりはありました。
 小宮山は冷たい汗が流れるばかり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、と隣で操り進む百万遍の声。
「姐《ねえ》さん、姐さん、」
 小声で呼んでみたが返事がないので、もしやともう耐《たま》らず、夜具の上から揺振《ゆすぶ》りました。
「お雪さん。」
 三声ばかり呼ぶと、細く目を開いて小宮山の顔を見るが否や、さもさも物に恐れた様子で、飛着くように、小宮山の帯に縋《すが》り、身を引緊《ひきし》めるようにして、坐った膝に突伏《つッぷ》しまする。戦《おのの》く背中を小宮山はしっかと抱《いだ》いた、様子は見届けたのでありまするから、哀れさもまた百倍。
 怖さは小宮山も同じ事、お雪の背中へ額を着けて、夜の明くるのをただ、一刻千秋の思《おもい》で待構えまする内に疲れたせいか、我にもあらずそろそろと睡《まどろ》みましたと見えて、目が覚めると、月の夜《よ》は変り、山の端《は》に晴々しい旭《あさひ》、草木の露は金色《こんじき》を鏤《ちりば》めておりました。
 密《そっ》と膝から下すと、お雪はやはりそのままに、すやすやと寐入《ねい》っている。
「お早うございます。」
 と声を懸けて、機嫌聞きに亭主が真先《まっさき》、百万遍さえ止《や》みますれば、この親仁《おやじ》大元気で、やがてお鉄も参り、
「お客様お早うございます。」

       十九

 小宮山は早速|嗽《うがい》手水《ちょうず》を致して心持もさっぱりしましたが、右左から亭主、女共が問い懸けまする昨晩の様子は、いや、ただお雪がちょいと魘《うな》されたばかりだと言って、仔細《しさい》は明しませんでございました、これは後《のち》の事を慮《きづか》って、皆が恐れげなくお雪の介抱をしてやる事が出来るようにと、気を着けたのでありまする。
 お雪の病気を復《なお》すにも怪しいものを退治るにも、耆婆扁鵲《きばへんじゃく》に及ばず、宮本武蔵、岩見重太郎にも及ばず、ただ篠田の心一つであると悟りましたので、まだ、二日三日も居て介抱もしてやりたかったのではありますけれども、小宮山は自分の力では及ばない事を知り、何よりもまず篠田に逢ってと、こう存じましたので、急がぬ旅ながら早速出立を致しました。
 その柏屋を立ちまする時も、お雪はまだ昨夜《ゆうべ》のまま寝ていたのでありまする。失礼な起しましょうと口々に騒ぐを制して、朝餉《あさげ》も別間において認《したた》め、お前さん方が何も恐《こわ》がる程の事はないのだから、大勢側に附いて看病をしておやんなさいと、暮々も申し残して後髪を引かれながら。
 その日、糸魚川から汽船に乗って、直江津に着きました晩、小宮山は夷屋《えびすや》と云う本町の旅籠屋に泊りました、宵の口は何事も無かったのでありまするが、真夜中にふと同じ衾《しとね》にお雪の寝ているのを、歴々《ありあり》と見ましたので、喫驚《びっくり》する途端に、寝姿が向《むこう》むきになったその櫛巻が溢《こぼ》れて、畳の上へざらりという音。
 枕に着かるるどころではありませぬ、ああ越中と越後と国は変っても、女の念《おもい》は離れ
前へ 次へ
全18ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング