湯女の魂
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)九字《くじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)隠身|避水《へきすい》火遁《かとん》の術

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し
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       一

 誠に差出がましく恐入りますが、しばらく御清聴を煩わしまする。
 八宗の中にも真言宗には、秘密の法だの、九字《くじ》を切るだのと申しまして、不思議なことをするのでありますが、もっともこの宗門の出家方は、始めから寒垢離《かんごり》、断食など種々《さまざま》な方法で法を修《しゅ》するのでございまして、向うに目指す品物を置いて、これに向って呪文《じゅもん》を唱え、印を結んで、錬磨の功を積むのだそうでありまする。
 修錬の極致に至りますると、隠身|避水《へきすい》火遁《かとん》の術などはいうまでもございませぬ、如意自在な法を施すことが出来るのだと申すことで。
 ある真言|寺《でら》の小僧が、夜分墓原を通りますと、樹と樹との間に白いものがかかって、ふらふらと動いていた。暗さは暗し、場所柄は場所柄なり、可恐《おそろし》さの余り歯の根も合わず顫《ふる》え顫え呪文を唱えながら遁《に》げ帰りましたそうでありますが、翌日見まするとそこに乾かしてございました浴衣が、ずたずたに裂けていたと申しますよ、修行もその位になりましたこの小僧さんなぞのは、向って九字を切ります目当に立てておく、竹切、棒などが折れるといいます。
 しかし可《いい》加減な話だ、今時そんなことがある訳のものではないと、ある人が一人の坊さんに申しますと、その坊さんは黙って微笑《ほほえ》みながら、拇指《おやゆび》を出して見せました、ちと落語家《はなしか》の申します蒟蒻《こんにゃく》問答のようでありますけれども、その拇指を見せたのであります。
 そして坊さんが言うのに、まず見た処この拇指に、どの位な働きがあると思わっしゃる、たとえば店頭《みせさき》で小僧どもが、がやがや騒いでいる処へ、来たよといって拇指を出して御覧なさい、ぴったりと静《しずま》りましょう、また若い人にちょっと小指を見せたらどうであろう、銀座の通《とおり》で手を挙げれば、鉄道馬車が停《とま》るではなかろうか、も一つその上に笛を添えて、片手をあげて吹鳴らす事になりますと、停車場《ステイション》を汽車が出ますよ、使い処、用い処に因っては、これが人命にも関われば、喜怒哀楽の情も動かします。これをでかばちに申したら、国家の安危に係《かか》わるような、機会《おり》がないとも限らぬ、その拇指、その小指、その片手の働きで。
 しかるをいわんや臨兵闘者皆陣列在前《りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん》といい、令百由旬内無諸哀艱《りょうひゃくゆじゅんないむしょあいげん》と唱えて、四縦五行の九字を切るにおいては、いかばかり不思議の働《はたらき》をするかも計られまい、と申したということを聞いたのであります。
 いや、余事を申上げまして恐入りますが、唯今《ただいま》私が不束《ふつつか》に演じまするお話の中頃に、山中|孤家《ひとつや》の怪しい婦人《おんな》が、ちちんぷいぷい御代《ごよ》の御宝《おんたから》と唱えて蝙蝠《こうもり》の印を結ぶ処がありますから、ちょっと申上げておくのであります。
 さてこれは小宮山《こみやま》良介という学生が、一《ある》夏北陸道を漫遊しました時、越中の国の小川という温泉から湯女《ゆな》の魂を託《ことづか》って、遥々《はるばる》東京まで持って参ったというお話。
 越中に泊《とまり》と云って、家数千軒ばかり、ちょっと繁昌《はんじょう》な町があります。伏木《ふしき》から汽船に乗りますと、富山の岩瀬、四日市、魚津、泊となって、それから糸魚川《いといがわ》、関《せき》、親不知《おやしらず》、五智を通って、直江津へ出るのであります。
 小宮山はその日、富山を朝立《あさだち》、この泊の町に着いたのは、午後三時半頃。繁昌な処と申しながら、街道が一条《ひとすじ》海に添っておりますばかり、裏町、横町などと、謂《い》ってもないのであります、その町の半《なかば》頃のと有る茶店へ、草臥《くたび》れた足を休めました。

       二

 渋茶を喫しながら、四辺《あたり》を見る。街道の景色、また格別でございまして、今は駅路の鈴の音こそ聞えませぬが、馬、車、処の人々、本願寺|詣《もうで》の行者の類、これに豆腐屋、魚屋、郵便配達などが交《まじ》って往来引きも切らず、「早稲《わせ》の香や別け入る右は有磯海《ありそうみ》」という芭蕉の句も、この辺《
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