あたり》という名代の荒海《あらうみ》、ここを三十|噸《とん》、乃至《ないし》五十噸の越後丸、観音丸などと云うのが、入れ違いまする煙の色も荒海を乗越《のっこ》すためか一際濃く、且つ勇ましい。
茶店《ちゃみせ》の裏手は遠近《おちこち》の山また山の山続きで、その日の静かなる海面よりも、一層かえって高波を蜿《うね》らしているようでありました。
小宮山は、快く草臥《くたびれ》を休めましたが、何か思う処あるらしく、この茶屋の亭主を呼んで、
「御亭主、少し聞きたい事があるんだが。」
「へい、お客様、何でござりますな。
氷見鯖《ひみさば》の塩味、放生津鱈《ほうじょうづだら》の善悪《よしあし》、糸魚川の流れ塩梅《あんばい》、五智の如来《にょらい》へ海豚《いるか》が参詣《さんけい》を致しまする様子、その鳴声、もそっと遠くは、越後の八百八後家《はっぴゃくやごけ》の因縁でも、信濃川の橋の間数《まかず》でも、何でも存じておりますから、はははは。」
と片肌脱、身も軽いが、口も軽い。小宮山も莞爾《にっこり》して、
「折角だがね、まずそれを聞くのじゃなかったよ。」
「それはお生憎様《あいにくさま》でござりまするな。」
何が生憎。
「私の聞きたいのは、ここに小川の温泉と云うのがあるッて、その事なんだがどうだね。」
「ええ、ござりますとも、人足《ひとあし》も通いませぬ山の中で、雪の降る時|白鷺《しらさぎ》が一羽、疵所《きずしょ》を浸しておりましたのを、狩人の見附けましたのが始りで、ついこの八九年前から開けました。一体、この泊のある財産家の持地でござりますので、仮《ほん》の小屋掛で近在の者へ施し半分に遣《や》っておりました処、さあ、盲目《めくら》が開く、躄《いざり》が立つ、子供が産れる、乳が出る、大した効能。いやもう、神《しん》のごとしとござりまして、所々方々から、彼岸詣《ひがんもうで》のように、ぞろぞろと入湯に参りまする。
ところで、二階家を四五軒建てましたのを今では譲受けた者がござりまして、座敷も綺麗、お肴《さかな》も新らしい、立派な本場の温泉となりまして、私はかような田舎者で存じませぬが、何しろ江戸の日本橋ではお医者様でも有馬の湯でもと云うた処を、芸者が、小川の湯でもと唄うそうでござりますが、その辺は旦那御存じでござりましょうな。いかが様で。」
反対《あべこべ》に鉄砲を向けられて、小宮山は開いた口が塞《ふさ》がらず。
「土地繁昌の基《もとい》で、それはお目出度い。時に、その小川の温泉までは、どのくらいの道だろう。」
「ははあ、これからいらっしゃるのでござりますか。それならば、山道三里半、車夫《くるまや》などにお尋ねになりますれば、五里半、六里などと申しますが、それは丁場の代価《ねだん》で、本当に訳はないのでござりまする。」
「ふむ、三里半だな可《よ》し。そして何かい柏屋《かしわや》と云う温泉宿は在るかね。」
「柏屋! ええもう小川で一等の旅籠屋《はたごや》、畳もこのごろ入換えて、障子もこのごろ張換えて、お湯もどんどん沸いております。」
と年甲斐もない事を言いながら、亭主は小宮山の顔を見て、いやに声を密《ひそ》めたのでありますな、怪《けし》からん。
「へへへ、好《い》い婦人《おんな》が居《お》りますぜ。」
「何を言っているんだ。」
「へへへ、お湯をさして参りましょうか。」
「お茶もたんと頂いたよ。」
と小宮山は傍《わき》を向いて、飲さしの茶を床几《しょうぎ》の外へざぶり明けて身支度に及びまする。
三
小宮山は亭主の前で、女の話を冷然として刎《は》ね附けましたが、密《ひそか》に思う処がないのではありませぬ。一体この男には、篠田《しのだ》と云う同窓の友がありまして、いつでもその口から、足下《そっか》もし折があって北陸道を漫遊したら、泊から訳はない、小川の温泉へ行って、柏屋と云うのに泊ってみろ、於雪《おゆき》と云って、根津や、鶯谷《うぐいすだに》では見られない、田舎には珍らしい、佳《い》い女が居るからと、度々聞かされたのでありますが、ただ、佳い女が居るとばかりではない、それが篠田とは浅からぬ関係があるように思われまする、小宮山はどの道一泊するものを、乾燥無味な旅籠屋に寝るよりは、多少|色艶《いろつや》っぽいその柏屋へと極《き》めたので。
さて、亭主の口と盆の上へ、若干《なにがし》かお鳥目をはずんで、小宮山は紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえ》、白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》、麦藁《むぎわら》帽子、脚絆《きゃはん》、草鞋《わらじ》という扮装《いでたち》、荷物を振分にして肩に掛け、既に片影が出来ておりますから、蝙蝠傘《こうもりがさ》は畳んで提《ひっさ》げながら、茶店を発《た》つて、従是《これより》小川温泉道と書いた、傍
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