《おみなえし》が、無慙《むざん》や風に吹き乱されて、お雪はむッくと起上りましたのでありまする。小宮山は論が無い、我を忘れて後《しりえ》に※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と坐りました。
 蝙蝠は飜《ひるがえ》って、向側の障子の隙間から、ひらひらと出たと思うと、お雪が後に跟《つ》いてずっと。
 蚊帳を出《い》でてまだ障子あり夏の月、雨戸を開けるでもなく、ただ風の入るばかりの隙間から、体がすっと細くなり、水に映《う》つる柳の蔭の隠れたように、ふと外へ出て見えなくなりましたと申しますな。勿論、蝙蝠に引出されたんで。

       十五

 小宮山は切歯《はがみ》をなして、我|赤樫《あかがし》を割って八角に削りなし、鉄の輪十六を嵌《は》めたる棒を携え、彦四郎定宗《ひこしろうさだむね》の刀を帯びず、三池の伝太|光世《みつよ》が差添《さしぞえ》を前半《まえはん》に手挟《たばさ》まずといえども、男子だ、しかも江戸ッ児だ、一旦請合った女をむざむざ魔に取られてなるものかと、追駈《おっか》けざまに足踏をしたのでありまする。あいにく神通がないので、これは当然《あたりまえ》に障子を開け、また雨戸を開けて、縁側から庭へ寝衣《ねまき》姿、跣足《はだし》のままで飛下りる。
 戸外《おもて》は真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂《おいしげ》った草が一筋に靡《なび》いて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。
 小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんず勢《いきおい》。
「おうい、おうい、お雪さん、お雪さん、お雪さん。」
 と声を限り、これや串戯《じょうだん》をしては可《い》けないぜと、思わず独言《ひとりごと》を言いながら、露草を踏《ふみ》しだき、薄《すすき》を掻分《かきわ》け、刈萱《かるかや》を押遣って、章駄天《いだてん》のように追駈けまする、姿は草の中に見え隠れて、あたかもこれ月夜に兎の踊るよう。
「お雪さん、おうい、お雪さん。」
 間《あわい》もやや近くなり、声も届きましたか、お雪はふと歩《あゆみ》を停《とど》めて、後を振返ると両の手を合せました。助けてくれと云うのであろう、哀れさも、不便《ふびん》さもかばかりなるは、と駈け着ける中《うち》、操《あやつり》の糸に掛けられたよう、お雪は、左へ右へ蹌踉《よろよろ》して、しなやかな姿を揉《も》み、しばらく争っているようでありました。けれども、また、颯《さっ》と駈け出して、あわやという中《うち》に影も形も見失ったのでありまする。
 処へ、かの魚津の沖の名物としてありまする、蜃気楼《しんきろう》の中の小屋のようなのが一軒、月夜に灯《ともし》も見えず、前途に朦朧《もうろう》として顕《あらわ》れました。
 小宮山は三蔵法師を攫《さら》われた悟空という格で、きょろきょろと四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しておりましたが、頂は遠く、四辺《あたり》は曠野《こうや》、たとえ蝙蝠の翼に乗っても、虚空へ飛び上る法ではあるまい、瞬《またたき》一つしきらぬ中《うち》、お雪の姿を隠したは、この家の内に相違ないぞ、這奴《こやつ》! 小川山《しょうせんざん》の妖怪ござんなれと、右から左へ、左から右へ取って返して、小宮山はこの家の周囲《まわり》をぐるぐると廻って窺《うかが》いましたが、あえて要害を見るには当らぬ。何の蝸牛《ででむし》みたような住居《すまい》だ、この中に踏み込んで、罷《まか》り違えば、殻を背負《しょ》っても逃げられると、高を括《くく》って度胸が坐ったのでありますから、威勢よく突立《つッた》って凜々《りんりん》とした大音声。
「お頼み申す、お頼み申す! お頼み申す※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 と続けざまに声を懸けたが、内は森《しん》として応《こたえ》がない、耳を澄ますと物音もしないで、かえって遠くの方で、化けた蛙《かわず》が固まって鳴くように、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。と百万遍。眉を顰《ひそ》めた小宮山は、癪《しゃく》に障るから苛立《いらだ》って喚《わめ》いたり。
「お頼み申す。」
 すると、どうでございましょう、鼻ッ先の板戸が音もしないで、すらりと開く。
「騒々しいじゃないかね。」
 顔を出したのが、鼻の尖《とが》った、目の鋭い、可恐《おそろ》しく丈《せ》の高い、蒼い色の衣服《きもの》を着た。凄《すご》い年増《としま》。一目見ても見紛う処はない、お雪が話したそれなんで。
 小宮山は思わず退《すさ》った、女はその我にもあらぬ小宮山の天窓《あたま》から足の爪先《つまさき》まで、じろりと見て、片頬笑《かたほわらい》をしたから可恐《おそろ》しいや。
「おや、おいでなさい、柏屋
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