寐られる訳ではありませぬから、しばらくお雪の様子を見ていたのでありまする。やや初夜|過《すぎ》となりました。
 山中の湯泉宿《ゆやど》は、寂然《しん》として静《しずま》り返り、遠くの方でざらりざらりと、湯女《ゆな》が湯殿を洗いながら、歌を唄うのが聞えまする。
 この界隈《かいわい》近国の芸妓《げいしゃ》などに、ただこの湯女歌ばかりで呼びものになっているのがありますくらい。怠けたような、淋しいような、そうかというと冴えた調子で、間《あい》を長く引張《ひっぱ》って唄いまするが、これを聞くと何となく睡眠剤を服《の》まされるような心持で、
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桂清水《かつらしみず》で手拭《てぬぐい》拾た、   これも小川の温泉《ゆ》の流れ。
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 などという、いわんや巌《いわ》に滴るのか、湯槽《ゆぶね》へ落つるのか、湯気の凝ったのか、湯女歌の相間《あいま》々々に、ぱちゃんぱちゃんと響きまするにおいてをや。

       十四

 これへ何と、前触《まえぶれ》のあった百万遍を持込みましたろうではありませんか、座中の紳士貴婦人方、都育ちのお方にはお覚えはないのでありまするが、三太やあい、迷《まい》イ児《ご》の迷イ児の三太やあいと、鉦《かね》を叩いて山の裾を廻る声だの、百万遍の念仏などは余り結構なものではありませんな。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》……南無阿弥陀……南無阿弥陀。
 亭主はさぞ勝手で天窓《あたま》から夜具をすっぽりであろうと、心に可笑《おか》しく思いまする、小宮山は山気|膚《はだ》に染み渡り、小用《こよう》が達《た》したくなりました。
 折角可い心地で寐《ね》ているものを起しては気の毒だ。勇士は轡《くつわ》の音に目を覚ますとか、美人が衾《ふすま》の音に起きませぬよう、そッと抜出して用達しをしてまいり、往復《ゆきかえり》何事もなかったのでありまするが、廊下の一方、今小宮山が行った反対の隅の方で、柱が三つばかり見えて、それに一つ一つ掛けてあります薄暗い洋燈《ランプ》の間を縫って、ひらひらと目に遮った、不思議な影がありました。それが天井の一尺ばかり下を見え隠れに飛びますから、小宮山は驚いて、入《い》り掛けた座敷の障子を開けもやらず、はてな、人魂《ひとだま》にしては色が黒いと、思いまする間も置かせず、飛ぶものは風を煽《あお》って、小宮山が座敷の障子へ、ばたりと留《とま》った。これは、これは、全くおいでなすったか知らんと、屹《きっ》と見まする、黒い人魂に羽が生えて、耳が出来た、明《あきら》かに認めましたのは、ちょいと鳶《とび》くらいはあろうという、大きな蝙蝠《こうもり》であります。
 そいつが羽撃《はばたき》をして、ぐるりぐるりと障子に打附《ぶッつ》かって這《は》い廻る様子、その動くに従うて、部屋の中の燈火《ともしび》が、明《あかる》くなり暗くなるのも、思いなし心持のせいでありましょうか。
 さては随筆に飛騨《ひだ》、信州などの山近な片田舎に、宿を借る旅人が、病もなく一晩の内に息の根が止《とま》る事がしばしば有る、それは方言|飛縁魔《ひのえんま》と称《とな》え、蝙蝠に似た嘴《くちばし》の尖《とんが》った異形なものが、長襦袢を着て扱帯《しごき》を纏《まと》い、旅人の目には妖艶《あでやか》な女と見えて、寝ているものの懐へ入《い》り、嘴を開けると、上下《うえした》で、口、鼻を蔽《おお》い、寐息を吸って吸殺すがためだとございまする。あらぬか、それか、何にしても妙ではない、かようなものを間の内へ入れてはならずと、小宮山は思案をしながら、片隅を五寸か一尺、開けるが早いか飛込んで、くるりと廻って、ぴしゃりと閉め、合せ目を押え附けて、どっこいと踏張《ふんば》ったのでありまする。しばらく、しっかりと押え附けて、様子を窺《うかが》っておりましたが、それきり物音もしませぬので、まず可《よ》かったと息を吐《つ》き、これから静《しずか》に衾《しとね》の方を向きますると、あにはからんやその蝙蝠は座敷の中をふわりふわり。
 南無三宝《なむさんぽう》と呆気《あっけ》に取られて、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った鼻っ先を、件《くだん》の蝙蝠は横撫《よこなで》に一つ、ばさりと当てて向《むこう》へ飛んだ。
 何様猫が冷たい処をこすられた時は、小宮山がその時の心持でありましょう。
 嚔《くしゃみ》もならず、苦り切って衝立《つッた》っておりますると、蝙蝠は翼を返して、斜《ななめ》に低う夜着の綴糸《とじいと》も震うばかり、何も知らないですやすやと寐ている、お雪の寝姿の周囲《ぐるり》をば、ぐるり、ぐるり、ぐるりと三度。縫って廻られるたびに、ううむ、ううむ、うむと幽《かすか》に呻《うめ》いたと、見るが否や、萎《しお》れ伏したる女郎花
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