しょう。私は余り折檻《せっかん》が辛うございますから、確《たしか》に思い切りますと言うんですけれども、またその翌晩《あくるばん》同じ事を言って苦しめられます時、自分でも、成程と心付きますが、本当は思い切れないのでございますよ。
 どうしてこれが思い切れましょう、因縁とでも申しますのか、どう考え直しましても、叱ってみても宥《なだ》めてみても、自分が自由にならないのでございますから、大方今に責め殺されてしまいましょう。」
 と云う、顔の窶《やつ》れ、手足の細り、たゆげな息使い、小宮山の目にも、秋の蝶の日に当ったら消えそうに見えまして、
「死ぬのはちっとも厭《いと》いませぬけれども、晩にまた酷《ひど》い目に逢うのかと、毎日々々それを待っているのが辛くってなりません。貴方お察し遊ばして。
 本当に慾《よく》も未来も忘れましてどうぞまあ一晩安々|寐《ね》て、そうして死にますれば、思い置く事はないと存じながら、それさえ自由《まま》になりません、余りといえば悔しゅうございましたのに、こうやってお傍《そば》に置いて下さいましたから、いつにのう胸の動悸《どうき》も鎮りまして、こんな嬉しい事はございませぬ。まあさぞお草臥《くたびれ》なさいまして、お眠うもございましょうし、お可煩《うるそ》うございましょうのに、つい御言葉に甘えまして、飛んだ失礼を致しました。」
 人にも言わぬ積り積った苦労を、どんなに胸に蓄《たくわ》えておりましたか、その容体ではなかなか一通りではなかろうと思う一部始終を、悉《くわ》しく申したのでありまする。
 さっきから黙然《もくねん》として、ただ打頷《うちうなず》いておりました小宮山は、何と思いましたか力強く、あたかも虎を搏《てうち》にするがごとき意気込で、蒲団の端を景気よくとんと打って、むくむくと身を起し、さも勇ましい顔で、莞爾《にっこり》と笑いまして、
「訳はない。姉さん、何の事《こっ》たな。」

       十二

「皆《みんな》そりゃ熱のせいだ、熱だよ。姉さんも知ってるだろうが、熱じゃ色々な事を見るものさ。疫《えやみ》の神だの疱瘡《ほうそう》の神だのと、よく言うじゃないか、みんなこれは病人がその熱の形を見るんだっさ。
 なかにも、これはちいッと私が知己《ちかづき》の者の維新前後の話だけれども、一人、踊で奉公をして、下谷《したや》辺のあるお大名の奥で、お小姓を勤めたのがね、ある晩お相手から下って、部屋へ、平生《ふだん》よりは夜が更けていたんだから、早速お勤《つとめ》の衣裳《いしょう》を脱いでちゃんと伸《の》して、こりゃ女の嗜《たしなみ》だ、姉さんなんぞも遣るだろうじゃないか。」
「はい。」
「まあお聞きそれから縞《しま》のお召縮緬《めしちりめん》、裏に紫縮緬の附いた寝衣《ねまき》だったそうだ、そいつを着て、紅梅の扱帯《しごき》をしめて、蒲団の上で片膝を立てると、お前、後毛《おくれげ》を掻上《かきあ》げて、懐紙で白粉《おしろい》をあっちこっち、拭《ふ》いて取る内に、唇に障《さわ》るとちょいと紅《べに》が附いたろう。お小姓がね、皺《しわ》を伸してその白粉の着いた懐紙を見ていたが、何と思ったか、高島田に挿している銀の平打の簪《かんざし》、※[#丸い、407−8]《まるにいのじ》が附いている、これは助高屋《すけたかや》となった、沢村|訥升《とつしょう》の紋なんで、それをこのお小姓が、大層|贔屓《ひいき》にしたんだっさ。簪をぐいと抜いてちょいと見るとね、莞爾《にっこり》笑いながら、そら今口紅の附いた懐紙にぐるぐると巻いて、と戴《いただ》いたとまあお思い。
 可いかい、それを文庫へ了《しま》って、さあ寝支度も出来た、行燈《あんどう》の灯《ひ》を雪洞《ぼんぼり》に移して、こいつを持つとすッと立って、絹の鼻緒の嵌《すが》った層《かさ》ね草履をばたばた、引摺って、派手な女だから、まあ長襦袢《ながじゅばん》なんかちらちちとしたろうよ。
 長廊下を伝って便所へ行《ゆ》くものだ。矢だの、鉄砲だの、それ大袈裟《おおげさ》な帯が入るのだから、便所は大きい、広い事、畳で二畳位は敷けるのだと云うよ。それへ入ろうとするとね、えへん! ともいわず歌も詠《よ》まないが、中に人のいるような気勢《けはい》がするから、ふと立停《たちどま》った、しばらく待ってても、一向に出て来ない、気を鎮めてよく考えると、なあに、何も入っていはしないようだったっさ。
 ええ、姐《ねえ》さん変じゃないか、気が差すだろう。それからそのお小姓は、雪洞を置いて、ばたりと戸を開けたんだ、途端に、大変なものが、お前心持を悪くしては可《い》けない、これがみんな病のせいだ。
 戸を開けると一所に、中に真俯向《まうつむ》けになっていた、穢《きたな》い婆《ばばあ》が、何とも云いようのない顔を上げて、じ
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