谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて迷児《まいご》になったんだから、こりゃ自分の身体《からだ》はどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、恐《こわ》くなったんです。
 ただ車夫《くるまや》に間違えられたばかりなら、雪だっても今|帷子《かたびら》を着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。
 気になるのは、昼間|腕車《くるま》が壊れていましょう、それに、伊予紋で座が定《きま》って、杯の遣取《やりとり》が二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。
 灯《あかり》がついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭の歩《あゆみ》を越して玄関へ出て見ると、叔母の宅《うち》に世話になって、従妹《いとこ》の書物《ほん》なんか教えている婦人が来て立っていました。
 先刻《さっき》奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅
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