じゃあなかった。俺《おら》あ遊女《おいらん》の名と坂の名はついぞ覚えたことは無《ね》えッて、差配《おおや》さんは忘れたと謂《い》わッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、歴《れっき》とした旗本のお嬢さんで、お邸《やしき》は番町辺。
何でも徳川様|瓦解《がかい》の時分に、父様《おとっさん》の方は上野へ入《へえ》んなすって、お前、お嬢さんが可哀《かわい》そうにお邸の前へ茣蓙《ござ》を敷いて、蒔絵《まきえ》の重箱だの、お雛様《ひなさま》だの、錦絵《にしきえ》だのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。
それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐり合《あい》、という深い交情《なか》であったげな。
牛込見附で、仲間《ちゅうげん》の乱暴者を一|人《にん》、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという手利《てきき》なお嬢さんじや、廓《くるわ》でも一時《ひとしきり》四辺《あたり》を払ったというのが、思い込んで剃刀で突いた奴《やつ》。」
「ほい。」
十
「男はまる
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