」
「何か剃刀の失《う》せるに就いてか、」
「つい四五日前、町内の差配人《おおや》さんが、前の溝川の橋を渡って、蔀《しとみ》を下《おろ》した薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、店賃《たなちん》の御催促。万年町の縁の下へ引越《ひっこ》すにも、尨犬《むくいぬ》に渡《わたり》をつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ仕誼《しぎ》、一刻も猶予ならぬ立退《たちの》けでござりましょう。その儀ならば後《のち》とは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますと謂《い》うたらば。
差配《おおや》さん苦笑《にがわらい》をして、狸爺め、濁酒《どぶろく》に喰《くら》い酔って、千鳥足で帰って来たとて、桟橋《さんばし》を踏外そうという風かい。溝店《どぶだな》のお祖師様と兄弟分だ、少《わか》い内から泥濘《ぬかぬみ》へ踏込んだ験《ためし》のない己《おれ》だ、と、手前《てめえ》太平楽を並べる癖に。
御意でござります。
どこまで始末に了《お》えねえか数《すう》が知れねえ。可《い》いや、地尻の番太と手前《てめえ》とは、己《おら》が芥子坊主《けしぼうず》の時分から居てつきの厄介者だ。当《あて》もねえのに、毎日研物
前へ
次へ
全88ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング