ってお上げ。(巫女受取って手箱に差置く)――お沢さん、あなたの頼みは分りました。一念は届けて上げます。名高い俳優《やくしゃ》だそうだけれど、私《わたし》は知りません、何処《どこ》に、いま何をしていますか。
巫女 今日《きょう》、今夜――唯今の事は、海山《うみやま》百里も離れまして、この姉《あね》さまも、知りますまい。姥が申上げましょう。
媛神 聞きましょう――お沢さん、その男の生命《いのち》を取るのだね。
お沢 今さら、申上げますも、空恐《そらおそろ》しうございます、空恐しう存じあげます。
媛神 森の中でも、この場でも、私《わたし》に頼むのは同じ事。それとも思い留《とま》るのかい。
お沢 いいえ、私《わたし》の生命《いのち》をめされましても、一念だけは、あの一念だけは。――あんまり男の薄情さ、大阪へも、追縋《おいすが》って参りましたけれど、もう……男は、石とも、氷とも、その冷たさはありません。口も利《き》かせはいたしません。
巫女 いやみ、つらみや、怨《うら》み、腹立ち、怒《おこ》ったりの、泣きついたりの、口惜《くや》しがったり、武《む》しゃぶりついたり、胸倉《むなぐら》を取ったりの、それが何《なん》になるものぞ。いい女が相好《そうごう》崩《くず》して見っともない。何も言わずに、心に怨んで、薄情ものに見せしめに、命の咒詛《のろい》を、貴女《あなた》様へ願掛《がんが》けさしゃった、姉《あね》さんは、おお、お怜悧《りこう》だの。いいお娘《こ》だ。いいお娘《こ》だ。さて何《なん》とや、男の生命《いのち》を取るのじゃが、いまたちどころに殺すのか。手を萎《なや》し、足を折り、あの、昔|田之助《たのすけ》とかいうもののように胴中《どうなか》と顔ばかりにしたいのかの、それともその上、口も利かせず、死んだも同様にという事かいの。
お沢 ええ、もう一層《いっそ》(屹《きっ》と意気組む)ひと思いに!
巫女 お姫様、お聞きの通りでござります。
媛神 男は?
巫女 これを御覧遊ばされまし。(胸の手箱を高く捧げ、さし翳《かざ》して見せ参らす。)
媛神 花の都の花の舞台、咲いて乱れた花の中に、花の白拍子《しらびょうし》を舞っている……
巫女 座頭俳優《ざがしらやくしゃ》が所作事《しょさごと》で、道成寺《どうじょうじ》とか、……申すのでござります。
神職 ははっ、ははっ、恐れながら、御神《おんかみ》に伺い奉る、伺い奉る……謹《つつし》み謹み白《もう》す。
媛神 (――無言――)
神職 恐れながら伺い奉る……御神慮におかせられては――畏《かしこ》くも、これにて漏れ承りまする処におきましては――これなる悪女《あくじょ》の不届《ふとどき》な願《ねがい》の趣《おもむき》……趣をお聞き届け……
媛神 肯《き》きます。不届とは思いません。
神職 や、この邪《よこしま》を、この汚《けがれ》を、おとりいれにあい成りまするか。その御霊《ごりょう》、御魂《みたま》、御神体は、いかなる、いずれより、天降《あまくだ》らせます。……
媛神 石垣を堅めるために、人柱《ひとばしら》と成って、活《い》きながら壁に塗られ、堤《つつみ》を築くのに埋《うず》められ、五穀のみのりのための犠牲《いけにえ》として、俎《まないた》に載せられた、私《わたし》たち、いろいろなお友だちは、高い山、大《おおき》な池、遠い谷にもいくらもあります。――不断|私《わたし》を何と言ってお呼びになります。
神職 はッ、白寮権現《はくりょうごんげん》、媛神《ひめがみ》と申し上げ奉る。
媛神 その通り。
神職 そ、その媛神におかせられては、直《す》ぐなること、正しきこと、明かに清らけきことをこそお司《つかさど》り遊ばさるれ、恁《かか》る、邪《よこしま》に汚れたる……
媛神 やみの夜《よ》は、月が邪《よこしま》だというのかい。村里に、形のありなしとも、悩み煩らいのある時は、私《わたし》を悪いと言うのかい。
神職 さ、さ、それゆえにこそ、祈り奉るものは、身を払い、心を払い、払い清めましての上に、正しき理《ことわり》、夜《よる》の道さえ明かなるよう、風も、病《やまい》も、悪《あし》きをば払わせたまえと、御神《おんかみ》の御前《みまえ》に祈り奉る。
媛神 それは御勝手、私《わたし》も勝手、そんな事は知りません。
神職 これは、はや、恐れながら、御声《おんこえ》、み言葉とも覚えませぬ。不肖|榛貞臣《はしばみさだおみ》、徒《いたず》らに身すぎ、口すぎ、世の活計に、神職は相勤めませぬ。刻苦勉励、学問をも仕《つかまつ》り、新しき神道を相学び、精進潔斎《しょうじんけっさい》、朝夕《あさゆう》の供物《くもつ》に、魂の切火《きりび》打って、御前《みまえ》にかしずき奉る……
媛神 私《わたし》は些《ちっ》とも頼みはしません。こころざしは受けますが
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