おおいがわ》より大《で》かいという、長柄《ながら》川の鉄橋な、お前様。川むかいの駅へ行った県庁づとめの旦那どのが、終汽車《しまいぎしゃ》に帰らぬわ。予《かね》てうわさの、宿場《しゅくば》の娼婦《ふんばり》と寝たんべい。唯おくものかと、その奥様ちゅうがや、梅雨《つゆ》ぶりの暗《やみ》の夜中《よなか》に、満水の泥浪《どろなみ》を打つ橋げたさ、すれすれの鉄橋を伝ってよ、いや、四つ這いでよ。何が、いま産れるちゅう臨月腹《りんげつばら》で、なあ、流《ながれ》に浸りそうに捌《さば》き髪《がみ》で這うて渡った。その大《おおき》な腹ずらえ、――夜《よ》がえりのものが見た目では、大《でか》い鮟鱇《あんこう》ほどな燐火《ふとだま》が、ふわりふわりと鉄橋の上を渡ったいうだね、胸の火が、はい、腹へ入《はい》って燃えたんべいな。
仕丁 お言《ことば》の中《なか》でありますがな、橋が危《あぶな》くば、下の谿河は、巌《いわ》を伝うて渡られますでな、お厩《うまや》の馬はいつも流を越します。いや、先刻などは、落葉が重なり重なり、水一杯に渦巻いて、飛々《とびとび》の巌が隠れまして、何処《どこ》を渡ろうかと見ますうちに、水も、もみじで、一面に真紅《まっか》になりました。おっと……酔った目の所為《せい》ではござりませぬよ。
禰宜 棚村《たなむら》。(仕丁の名)御身《おみ》は何《なん》の話をするや。
仕丁 はあ、いえ、孕婦《はらみおんな》が鉄橋を這越《はいこ》すから見ますれば、丑《うし》の刻参《ときまいり》が谿河の一本橋は、気《け》もなく渡ると申すことで。石段は目につきます。裏づたいの山道《やまみち》を森へ通《かよ》ったに相違はござりますまい。
神職 棚村、御身まず、その婦《おんな》の帯を棄てい。
禰宜 かような婦の、汚らわしい帯を、抱いているという事があるものか。
仕丁 私《わし》が、確《しか》と圧《おさ》えておりますればこそで、うかつに棄てますと、このまま黒蛇《くろへび》に成って※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《のた》り廻りましょう。
禰宜 榛《はしばみ》(神職|名《な》)様がおっしゃる。樹《き》の枝へなりと掛けぬかい。
仕丁 樹に掛けましたら、なお、ずるずると大蛇《だいじゃ》に成って下《お》ります。(一層胸に抱く。)
神職 棚村、見苦しい、森の中へ放《ほか》し込め。
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仕丁、その言《ことば》の如くにす。――
[#ここで字下げ終わり]
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お沢 あの……(ふるえながら差出す手を、払いのけて、仕丁。森に行く。帯を投げるとともに飛返《とびかえ》る。)
神職 何《なん》とした。
仕丁 ずるずるずると巻きましたが、真黒な一幅《ひとはば》になって、のろのろと森の奥へ入《はい》りました。……大方《おおかた》、釘を打込みます古杉の根へ、一念で、巻きついた事でござりましょう。
神職 いずれ、森の中において、忌《いま》わしく、汚らわしき事をいたしおるは必定《ひつじょう》じゃ。さて、婦。……今日《きょう》は昼から籠《こも》ったか。真直《まっすぐ》に言え、御前《おんまえ》じゃぞ。
お沢 はい、(間《ま》)はい、あの、一七日《いちしちにち》の満願まで……この願《ねがい》を掛けますものは、唯|一目《ひとめ》、……一度でも、人の目に掛《かか》りますと、もうそれぎりに、願《ねがい》が叶《かな》わぬと申します。昨夜《ゆうべ》までは、獣《けもの》の影にも逢《あ》いません。もう一夜《ひとよ》、今夜だけ、また不思議に満願の夜《よ》といいますと、人に見られると聞きました。見られたら、どうしましょう。口惜《くちおし》い……その人の、咽喉《のど》、胸へ喰《く》いつきましても……
神職 これだ――したたかな婦《おんな》めが。
お沢 ええ、あのそれが何《なに》になりましょう。昼から森にかくれました方が、何がどうでも、第一、人の目にかかりますまいと、ふと思いついたのです。木の葉を被り、草に突伏《つッぷ》しても、すくまりましても、雉《きじ》、山鳥《やまどり》より、心のひけめで、見つけられそうに思われて、気が気ではありません。かえって、ただの参詣人《さんけいにん》のようにしております方《ほう》が、何《なん》の触《さわ》りもありますまいと、存じたのでございます。
神職 秘《ひ》しがくしに秘め置くべき、この呪詛《のろい》の形代《かたしろ》を(藁人形を示す)言わば軽々《かるがる》しう身につけおったは――別に、恐多《おそれおお》い神木《しんぼく》に打込んだのが、森の中にまだ他《ほか》にもあるからじゃろ。
お沢 いいえ、いいえ……昨夜《ゆうべ》までは、打ったままで置きました。私《わたし》がちょっとでも立離れます間《ま》に――今日はまたどうした事でござ
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