けが。」
「当前《あたりまえ》です、学校の用を欠いて、そんな他愛《たわい》もない事にかかり合っていられるもんかい。休暇になったから運動かたがた来て見たんだ。」
「へ、お前様なんざ、畳が刎《は》ねるばかりでも、投飛ばされる御連中だ。」
「何を、」
「私《わし》なんざ臆病《おくびょう》でも、その位の事にゃ馴《な》れたでの、船へ乗った気で押《おっ》こらえるだ。どうしてどうして、まだ、お前……」
「宰八よ、」
と陰気な声する。
「おお、」
「ぬしゃまた何も向う面《づら》になって、おかしなもののお味方をするにゃ当るめえでねえか。それでのうてせえ、おりゃ重いもので押伏《おっぷ》せられそうな心持だ。」
と溜息《ためいき》をして云った。浮世を鎖《とざ》したような黒門の礎《いしずえ》を、靄《もや》がさそうて、向うから押し拡がった、下闇《したやみ》の草に踏みかかり、茂《しげり》の中へ吸い込まれるや、否や、仁右衛門が、
「わっ、」
と叫んだ。
二十一
「はじめの夜は、ただその手毬《てまり》が失《う》せましただけで、別に変った事件《こと》も無かったでございますか。」
と、小次郎法師の旅僧《たびそう》は法衣《ころも》の袖を掻合《かきあわ》せる。
障子を開けて縁の端近《はしぢか》に差向いに坐ったのは、少《わか》い人、すなわち黒門の客である。
障子も普通《なみ》よりは幅が広く、見上げるような天井に、血の足痕《あしあと》もさて着いてはおらぬが、雨垂《あまだれ》が伝《つたわ》ったら墨汁《インキ》が降りそうな古びよう。巨寺《おおでら》の壁に見るような、雨漏《あまもり》の痕《あと》の画像《えすがた》は、煤《すす》色の壁に吹きさらされた、袖のひだが、浮出たごとく、浸附《しみつ》いて、どうやら饅頭《まんじゅう》の形した笠を被《かぶ》っているらしい。顔ぞと見る目鼻はないが、その笠は鴨居《かもい》の上になって、空から畳を瞰下《みお》ろすような、惟《おも》うに漏る雨の余り侘《わび》しさに、笠欲ししと念じた、壁の心が露《あらわ》れたものであろう――抜群にこの魍魎《もうりょう》が偉大《おおき》いから、それがこの広座敷の主人《あるじ》のようで、月影がぱらぱらと鱗《うろこ》のごとく樹《こ》の間《ま》を落ちた、広縁の敷居際に相対した旅僧の姿などは、硝子《がらす》障子に嵌込《はめこ》んだ、歌留多《かるた》の絵かと疑わるる。
「ええ、」
と黒門の年若な逗留《とうりゅう》客は、火のない煙草《たばこ》盆の、遥《はるか》に上の方で、燧灯《マッチ》を摺《す》って、静《しずか》に吸《す》いつけた煙草の火が、その色の白い頬に映って、長い眉を黒く見せるほど室《ま》の内は薄暗い。――差置かれたのは行燈《あんどう》である。
「まだその以前でした。話すと大勢が気にしますから、実は宰八と云う、爺さん……」
「ああ、手《てん》ぼうの……でございますな。」
「そうです。あの親仁《おやじ》にも謂《い》わないでいたんですが、猫と一所に手毬の亡くなりますちつと、前です。」
この古館《ふるやかた》のまずここへ坐りましたが、爺さんは本家へ、と云って参りました。黄昏《たそがれ》にただ私一人で、これから女中が来て、湯を案内する、上《あが》って来ます、膳《ぜん》が出る。床を取る、寝る、と段取の極《きま》りました旅籠屋《はたごや》でも、旅は住心《すみごころ》の落着かない、全く仮の宿です……のに、本家でもここを貸しますのを、承知する事か、しない事か。便りに思う爺さんだって、旅他国で畔道《あぜみち》の一面識。自分が望んでではありますが、家と云えば、この畳を敷いた――八幡不知《やわたしらず》。
第一要害がまるで解《わか》りません。真中《まんなか》へ立ってあっちこっち瞻《みまわ》しただけで、今入って来た出口さえ分らなくなりましたほどです。
大袈裟《おおげさ》に言えば、それこそ、さあ、と云う時、遁路《にげみち》の無い位で。夏だけに、物の色はまだ分りましたが、日は暮れるし、貴僧《あなた》、黒門までは可《い》い天気だったものを、急に大粒な雨!と吃驚《びっくり》しますように、屋根へ掛《かか》りますのが、この蔽《おっ》かぶさった、欅《けやき》の葉の落ちますのです。それと知りつつ幾たびも気になっては、縁側から顔を出して植込の空を透かしては見い見いしました、」
と肩を落して、仰ぎ様《ざま》に、廂《ひさし》はずれの空を覗《のぞ》いた。
「やっぱり晴れた空なんです……今夜のように。」
「しますると……」
旅僧は先祖が富士を見た状《さま》に、首あげて天井の高きを仰ぎ、
「この、時々ぱらぱらと来ますのは、木《こ》の葉でございますかな。」
「御覧なさい、星が降りそうですから、」
「成程。その癖音のしますたびに、ひやひやと身うちへ応《こた》えますで、道理こそ、一雨かかったと思いましたが。」
「お冷えなさるようなら、貴僧《あなた》、閉めましょう。」
「いいえ、蚊を疵《きず》にして五百両、夏の夜はこれが千金にも代えられません、かえって陽気の方がお宜《よろ》しい。」
と顔を見て、
「しかし、いかにもその時はお寂《さみ》しかったでございましょう。」
「実際、貴僧《あなた》、遥々《はるばる》と国を隔てた事を思い染みました。この果《はて》に故郷がある、と昼間三崎街道を通りつつ、考えなかったでもありませんが、場所と時刻だけに、また格別、古里が遠かったんです。」
「失礼ながら、御生国《ごしょうごく》は、」
「豊前《ぶぜん》の小倉《こくら》で、……葉越《はごし》と言います。」
葉越は姓で、渠《かれ》が名は明である。
「ああ、御遠方じゃ、」
と更《あらた》めて顔を見る目も、法師は我ながら遥々と海を視《なが》める思いがした。旅の窶《やつれ》が何となく、袖を圧して、その単衣《ひとえ》の縞柄《しまがら》にも顕《あらわ》れていたのであった。
「そして貴僧《あなた》は、」
「これは申後《もうしおく》れました、私《わたくし》は信州松本の在、至って山家ものでございます。」
「それじゃ、二人で、海山のお物語が出来ますね。」
と、明は優しく、人|懐《な》つこい。
二十二
「不思議な御縁で、何とも心嬉しく存じますが、なかなかお話相手にはなりません。ただ
承りまするだけで、それがしかし何より私《わたくし》には結構でございます。」
と僧は慇懃《いんぎん》である。
明は少し俯向《うつむ》いた。瘠《や》せた顋《あぎと》に襟狭く、
「そのお話と云いますのが、実に取留めのない事で、貴僧《あなた》の前では申すのもお恥かしい。」
「決して、さような事はございません。茶店の婆さんはこの邸に憑物《つきもの》の――ええ、ただ聞きましたばかりでも、成程、浮ばれそうもない、少《わか》い仏たちの回向《えこう》も頼む。ついては貴下《あなた》のお話も出ましてな。何か御覚悟がおありなさるそうで、熟《じっ》と辛抱をしてはござるが、怪しい事が重なるかして、お顔の色も、日ごとに悪い。
と申せば、庭先の柿の広葉が映るせいで、それで蒼白《あおじろ》く見えるんだから、気にするな、とおっしゃるが、お身体《からだ》も弱そうゆえに、老寄《としより》夫婦で一層のこと気にかかる。
昼の内は宰八なり、誰か、時々お伺いはいたしますが、この頃は気怯《きおく》れがして、それさえ不沙汰《ぶさた》がちじゃに因って、私によくお見舞い申してくれ、と云う、くれぐれもその託《ことづけ》でございました。が何か、最初の内、貴方《あなた》が御逗留《ごとうりゅう》というのに元気づいて、血気な村の若い者が、三人五人、夜食の惣菜ものの持寄り、一升徳利なんぞ提げて、お話|対手《あいて》、夜伽《よとぎ》はまだ穏《おだやか》な内、やがて、刃物切物、鉄砲持参、手覚えのあるのは、係羂《かけわな》に鼠の天麩羅《てんぷら》を仕掛けて、ぐびぐび飲みながら、夜更けに植込みを狙うなんという事がありますそうで?――
婆さんが話しました。」
「私は酒はいけず、対手は出来ませんから、皆さんの車座を、よく蚊帳の中から見ては寝ました。一時は随分|賑《にぎやか》でした。
まあ、入《いり》かわり立《たち》かわり、十日ばかり続いて、三人四人ずつ参りましたが、この頃は、ばったり来なくなりましたんです。」
「と申す事でございますな。ええ、時にその入り交《かわ》り立ち交りにつけて、何か怪しい、」
と言いかけて偶《ふ》と見返った、次の室《ま》と隔ての襖《ふすま》は、二枚だけ山のように、行燈《あんどう》の左右に峰を分けて、隣国《となりぐに》までは灯が届かぬ。
心も置かれ、後髪も引かれた状《さま》に、僧は首に気を入れて、ぐっと硬くなって、向直って、
「その怪しいものの方でも、手をかえ、品をかえ、怯《おびや》かす。――何かその……畳がひとりでに持上りますそうでありますが、まったくでございますかな。」
熟《じっ》と視《み》て聞くと、また俯向《うつむ》いて、
「ですから、お話しも極《きま》りが悪い、取留めのない事だと申すんです。」
「ははあ、」
と胸を引いて、僧は寛《くつろ》いだ状《さま》に打笑い、
「あるいはそうであろうかにも思いましたよ。では、ただ村のものが可《い》い加減な百物語。その実、嘘説《うそ》なのでございますので?」
「いいえ、それは事実です。畳は上《あが》りますとも。貴僧《あなた》、今にも動くかも分りません。」
「ええ!や、それは、」
と思わず、膝を辷《すべ》らした手で、はたはたと圧《おさ》えると、爪も立ちそうにない上床《じょうどこ》の固い事。
「これが、動くでございますか。」
「ですから、取留めのない事ではありませんか。」
と静《しずか》に云うと、黙って、ややあって瞬《またたき》して、
「さよう、余り取留めなくもないようでございます。すると、坐っているものはいかがな儀に相成りましょうか。」
「騒がないで、熟《じっ》としていさえすれば、何事もありません。動くと申して、別に倒《さかさ》に立って、裏返しになるというんじゃないのですから、」
「いかにも、まともにそれじゃ、人間が縁の下へ投込まれる事になりますものな。」
「そうですとも。そうなった日には、足の裏を膠《にかわ》で附着《くッつ》けておかねばなりません。
何ともないから、お騒ぎなさるなと云っても、村の人が肯《き》かないで、畳のこの合せ目が、」
と手を支《つ》いて、ずっと掌《てのひら》を辷《すべ》らしながら、
「はじめに、長い三角だの、小さな四角に、縁《ふち》を開けて、きしきしと合ったり、がらがらと離れたり、しかし、その疾《はや》い事は、稲妻のように見えます。
そうするともう、わっと言って、飛ぶやら刎《は》ねるやら、やあ!と踏張《ふんば》って両方の握拳《にぎりこぶし》で押えつける者もあれば、いきなり三宝|火箸《ひばし》でも火吹竹でも宙で振廻す人もある――まあ一人や二人は、きっとそれだけで縁から飛出して遁《に》げて行《ゆ》きます。」
二十三
「どたん、ばたん、豪《えら》い騒ぎ。その立騒ぐのに連れて、むくむくむくむく、と畳を、貴僧《あなた》、四隅から持上げますが、二隅ずつ、どん、どん、順に十畳敷を一時《いっとき》に十ウ、下から握拳を突出すようです。それ毛だらけだ、わあ女の腕だなんて言いますが、何、その畳の隅が裏返るように目まぐるしく飜《かえ》るんです。
もうそうなると、気の上《あが》った各自《てんで》が、自分の手足で、茶碗を蹴飛《けと》ばす、徳利《とっくり》を踏倒す、海嘯《つなみ》だ、と喚《わめ》きましょう。
その立廻りで、何かの拍子にゃ怪我もします、踏切ったくらいでも、ものがものですから、片足切られたほどに思って、それがために寝ついたのもあるんだそうで。漁師だとか言いましたっけ。一人、わざわざ山越えで浜の方から来たんだって、怪物《ばけもの》に負けない禁厭《まじない》だ、と※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《えい》の針を顱鉄《はちがね》がわ
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