の襟、襷《たすき》になり帯になり、果《はて》は薄《すすき》の裳《もすそ》になって、今もある通り、村はずれの谷戸口《やとぐち》を、明神の下あたりから次第に子産石《こうみいし》の浜に消えて、どこへ灌《そそ》ぐということもない。口につけると塩気があるから、海潮《うしお》がさすのであろう。その川裾《かわすそ》のたよりなく草に隠れるにつけて、明神の手水洗《みたらし》にかけた献燈の発句には、これを霞川、と書いてあるが、俗に呼んで湯川と云う。
 霞に紛れ、靄に交って、ほのぼのと白く、いつも水気の立つ処から、言い習わしたものらしい。
 あの、薄煙《うすけぶり》、あの、靄の、一際夕暮を染めたかなたこなたは、遠方《おちかた》の松の梢《こずえ》も、近間なる柳の根も、いずれもこの水の淀《よど》んだ処で。畑《はた》一つ前途《ゆくて》を仕切って、縦に幅広く水気が立って、小高い礎《いしずえ》を朦朧《もうろう》と上に浮かしたのは、森の下闇《したやみ》で、靄が余所《よそ》よりも判然《はっきり》と濃くかかったせいで、鶴谷が別宅のその黒門の一構《ひとかまえ》。
 三人は、彼処《かしこ》をさして辿《たど》るのである。
 ここに渠等《かれら》が伝う岸は、一間ばかりの川幅であるが、鶴谷の本宅の辺《あたり》では、およそ三間に拡がって、川裾は早やその辺からびしょびしょと草に隠れる。
 ここへは、流《ながれ》をさかのぼって来るので、間には橋一つ渡らねばならぬ。
 橋は明神の前へ、三崎街道に一つ、村の中に一つ。今しがた渠等が渡って、ここから見えるその村の橋も、鶴谷の手で欄干はついているが、細流《せせらぎ》の水静かなれば、偏《ひとえ》に風情を添えたよう。青い山から靄の麓へ架《か》け渡したようにも見え、低い堤防《どて》の、茅屋《かやや》から茅屋の軒へ、階子《はしご》を横《よこた》えたようにも見え、とある大家の、物好《ものずき》に、長く渡した廻廊かとも視《なが》められる。
 灯《ともしび》もやや、ちらちらと青田に透く。川下の其方《そなた》は、藁屋《わらや》続きに、海が映って空も明《あかる》い。――水上《みなかみ》の奥になるほど、樹の枝に、茅葺《かやぶき》の屋根が掛《かか》って、蓑虫《みのむし》が塒《ねぐら》したような小家がちの、それも三つが二つ、やがて一つ、窓の明《あかり》も射《さ》さず、水を離れた夕炊《ゆうかしぎ》の煙ばかり、細く沖で救《すくい》を呼ぶ白旗のように、風のまにまに打靡《うちなび》く。海の方は、暮が遅くて灯《あかり》が疾《はや》く、山の裾は、暮が早くて、燈《ともしび》が遅いそうな。
 まだそれも、鳴子引けば遠近《おちこち》に便《たより》があろう。家と家とが間《あい》を隔て、岸を措《お》いても相望むのに、黒門の別邸は、かけ離れた森の中に、ただ孤家《ひとつや》の、四方へ大《おおき》なる蜘蛛《くも》のごとく脚を拡げて、どこまでもその暗い影を畝《うね》らせる。
 月は、その上にかかっているのに。……
 先達《せんだつ》の仁右衛門は、早やその樹立《こだち》の、余波《なごり》の夜に肩を入れた。が、見た目のさしわたしに似ない、帯がたるんだ、ゆるやかな川|添《ぞい》の道は、本宅から約八丁というのである。
 宰八が言続《いいつ》いで、
「……(外廻りを流れて来るし、何もハイ空家から手毬を落す筈《はず》はねえ。そんでも猫の死骸なら、あすこへ持って行って打棄《うっちゃ》った奴があるかも知んねえ、草ぼうぼうだでのう、)と私《わし》、話をしただがね。」

       十九

「それからその少《わけ》え方は、(どうだろう、その黒門の空家というのを、一室《ひとま》借りるわけには行くまいか、自炊を遣《や》って、しばらく旅の草臥《くたびれ》を休めたい、)と相談|打《ぶ》ったが。
 ねえ、先生様。
 お前様《めえさま》、今の住居《すまい》は、隣の嚊々《かかあ》が小児《がき》い産んで、ぎゃあぎゃあ煩《うるせ》え、どこか貸す処があるめえか、言わるるで、そん当時黒門さどうだちゅったら、あれは、と二の足を蹈《ふ》ましっけな。」
 と横ざまに浴《あび》せかけると、訓導は不意打ながら、さしったりで、杖《ステッキ》を小脇に引抱《ひんだ》き、
「学校へ通うのに足場が悪くって、道が遠くって仕様がないから留《や》めたんだ。」
「朝寝さっしゃるせいだっぺい。」
 仁右衛門が重い口で。
 訓導は教うるごとく、
「第一水が悪い。あの、また真蒼《まっさお》な、草の汁のようなものが飲めるものかい。」
「そうかね――はあ、まず何にしろだ。こっちから頼めばとって、昼間掃除に行くのさえ、厭《いや》がります空屋敷じゃ。そこが望み、と仰有《おっしゃ》るに、お住居《すまい》下さればその部屋一ツだけも、屋根の草が無うなって、立腐れが保つこんだで、こっちは願ったり、叶《かな》ったり、本家の旦那《だんな》もさぞ喜びましょうが、尋常体《なみてい》の家《うち》でねえ。あの黒門を潜《くぐ》らっしゃるなら、覚悟して行かっせえ、可《よ》うがすか、と念を入れると、
(いやその位の覚悟はいつでもしている。)
 と落着いたもんだてえば。
 はてな、この度胸だら盗賊《どろぼう》でも大将株だ、と私《わし》、油断はねえ、一分別しただがね、仁右衛門よ、」
「おおよ。」
「前刻《さっき》、着たっきりで、手毬を拾いに川ん中さ飛込んだ時だ。旅空かけて衣服《きもの》をどうするだ、と私《わし》頼まれ効《がい》もなかったけえ、気の毒さもあり、急がずば何とかで濡れめえものを夕立だ、と我鳴《がなっ》った時よ。
(着物は一枚ありますから……)
 と見得でねえわ、見得でねえね。極《きま》りの悪そうに、人の心を無にしねえで言訳をするように言わしっけが、こいつを睨《にら》んで、はあ、そこへ私《わし》が押惚《おっぽ》れただ。
 殊勝な、優しい、最愛《いとし》い人だ。これなら世話をしても仔細《しさい》あんめえ。第一、あの色白な仁体《じんてい》じゃ……化《ば》……仁右衛門よ。」
「何《あに》い、」
「暗くなったの、」
「彼これ、酉刻《むつ》じゃ。」
「は、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、黒門前は真暗《まっくら》だんべい。」
「大丈夫、月が射《さ》すよ。」
 と訓導は空を見て、
「お前、その手毬の行方はどうしたんだい。」
「そこだてね、まあ聞かっせえ、客人が、その最愛《いとし》らしい容子《ようす》じゃ……化《ばけ》、」
 とまた言い掛けたが、青芒《あおすすき》が川のへりに、雑木|一叢《ひとむら》、畑の前を背|屈《かが》み通る真中《まんなか》あたり、野末の靄《もや》を一|呼吸《いき》に吸込んだかと、宰八|唐突《だしぬけ》に、
「はッくしょ!」
 胴震いで、立縮《たちすく》み、
「風がねえで、えら太《ひど》い蜘蛛の巣だ。仁右衛門、お前《めえ》、はあ、先へ立って、よく何ともねえ。」
「巣、巣どころか、己《おら》あ樹の枝から這《は》いかかった、土蜘蛛を引掴《ひッつか》んだ。」
「ひゃあ、」
「七日風が吹かねえと、世界中の人を吸殺すものだちゅっけ、半日蒸すと、早やこれだ。」
 と握占《にぎりし》めた掌《てのひら》を、自分で捻開《こじあ》けるようにして開いたが、恐る恐る透《すか》して見ると、
「何ぢゃ、蟹か。」
 水へ、ザブン。
 背後《うしろ》で水車《みずぐるま》のごとく杖《ステッキ》を振廻していた訓導が、
「長蛇《ちょうだ》を逸すか、」
 と元気づいて、高らかに、
「たちまち見る大蛇の路に当って横《よこた》わるを、剣を抜いて斬《き》らんと欲すれば老松《ろうしょう》の影!」
「ええ、静《しずか》にしてくらっせえ、……もう近えだ。」
 と仁右衛門は真面目《まじめ》に留める。
「おい、手毬はどうして消えたんだな、焦《じれ》ったい。」
「それだがね、疾《はえ》え話が、御仁体じゃ。化物が、の、それ、たとい顔を嘗《な》めればとって、天窓《あたま》から塩《しお》とは言うめえ、と考えたで、そこで、はい、黒門へ案内しただ。仁右衛門も知っての通り――今日はまた――内の婆々殿が肝入《きもいり》で、坊様を泊《と》めたでの、……御本家からこうやって夜具を背負《しょ》って、私《わし》が出向くのは二度目だがな。」

       二十

「その書生さんの時も、本宅の旦那様、大喜びで、御酒は食《あが》らぬか。晩の物だけ重詰《じゅうづめ》にして、夜さりまた掻餅《かきもち》でも焼いてお茶受けに、お茶も土瓶で持って行《ゆ》け。
 言わっしゃったで、一風呂敷と夜具包みを引背負《ひっしょ》って出向いたがよ。
 へい、お客様|前刻《せんこく》は。……本宅でも宜《よろ》しく申してでござりました。お手廻りのものや、何やかや、いずれ明日お届け申します。一餉《ひとかたけ》ほんのお弁当がわり。お茶と、それから臥《ふせ》らっしゃるものばかり。どうぞハイ緩《ゆっく》り休まっしゃりましと、口上言うたが、着物は既《すんで》に浴衣に着換えて、燭台《しょくだい》の傍《わき》へ……こりゃな、仁右衛門や私《わし》が時々見廻りに行《ゆ》く時、皆《みんな》閉切ってあって、昼でも暗えから要害に置いてあった。……先《せん》に案内をした時に、彼これ日が暮れたで、取り敢《あえ》ず点《とも》して置いたもんだね。そのお前様《めえさま》、蝋燭火《ろうそくび》の傍《わき》に、首い傾《かし》げて、腕組みして坐ってござるで、気になるだ。
(どうかさっせえましたか。)と尋ねるとの。
 ここだ!」
 と唐突《だしぬけ》に屹《きっ》と云う。
「ええ何か、」と訓導は一足《ひとあし》退《の》く。
 宰八は委細構わず。
「手毬の消えたちゅうがよ。(ここに確《たしか》に置いたのが見えなくなった、)と若え方が言わっしゃるけ。
 そうら、始まったぞ、と私《わし》一ツ腰をがっくりとやったが、縁側へつかまったあ――どんな風に、失《な》くなったか、はあ、聞いたらばの。
 三ツばかり、どうん、どうん、と屋根へ打附《ぶつか》ったものがあった……大《おおき》な石でも落ちたようで、吃驚《びっくり》して天井を見上げると、あすこから、と言わしっけ。仁右衛門、それ、の、西の鉢前の十畳敷の隅ッこ。あの大掃除の検査の時さ、お巡査《まわり》様が階子《はしご》さして、天井裏へ瓦斯《がす》を点《つ》けて這込《はいこ》まっしゃる拍子に、洋刀《サアベル》の鐺《こじり》が上《あが》って倒《さかさま》になった刀《み》が抜けたで、下に居た饂飩《うどん》屋の大面《おおづら》をちょん切って、鼻柱怪我ァした、一枚外れている処だ。
 どんと倒落《さかおと》しに飛んで下りたは三毛猫だあ。川の死骸と同じ毛色じゃ、(これは、と思うと縁へ出て)……と客人の若え方が言わっしゃったで、私《わし》は思わず傍《わき》へ退《の》いたが。
 庭へ下りて、草|茫々《ぼうぼう》の中へ隠れたのを、急いで障子の外へ出て見ている内に、床の間に据えて置いた、その手毬がさ。はい、忽然《こつねん》と消えちゅうは、……ここの事だね。」
「消えたか、落したか分るもんか。」
「はあ、分らねえから、変でがしょ、」
「何もちっとも変じゃない。いやしくも学校のある土地に不思議と云う事は無いのだから。」
「でも、お前様《めえさま》、その猫がね、」
「それも猫だか、鼬《いたち》だか、それとも鼠だが[#「だが」はママ]、知れたもんじゃない。森の中だもの、兎《うさぎ》だって居るかも知れんさ。」
「そのお前様、知れねえについてでがさ。」
「だから、今夜行って、僕が正体を見届けてやろうと云うんだ。」
「はい、どうぞ、願えますだ。今までにも村方で、はあ、そんな事を言って出向いたものがの、なあ、仁右衛門。」
 無言なり。
「前方《さき》へ行って目をまわしっけ、」
「馬鹿、」
 と憤然《むっ》とした調子で呟《つぶや》く。
 きかぬ気の宰八、紅《くれない》の鋏《はさみ》を押立《おった》て、
「お前様もまた、馬鹿だの、仁右衛門だの、坊様だの、人大勢の時に、よく今夜来さしった。今まではハイついぞ行って見ようとも言わねえだっ
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