惚《ききと》れていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。
大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。」
と扇を膝に、両手で横に支《つ》きながら、丁寧に会釈する。
姥《うば》はあらためて右瞻左瞻《とみこうみ》たが、
「お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。難有《ありがた》や、」
と浅からず渇仰《かつごう》して、
「本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って回向《えこう》をしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と斎布施《ときふせ》をお目当で……」
とずっきり云った。
「こりゃ仰有《おっしゃ》りそうな処、御自分の越度《おちど》をお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と前途《さき》をお急ぎなさります飾りの無いお前様。
道中、お髪《ぐし》の伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。……
もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。」
十六
鶴谷が下男、苦虫の仁右衛門《にえもん》親仁《おやじ》。角のある人魂《ひとだま》めかして、ぶらりと風呂敷包を提げながら、小川べりの草の上。
「なあよ、宰八、」
「やあ、」
と続いた、手《てん》ぼう蟹は、夥間《なかま》の穴の上を冷飯草履《ひやめしぞうり》、両足をしゃちこばらせて、舞鶴の紋の白い、萌黄《もえぎ》の、これも大包《おおづつみ》。夜具を入れたのを引背負《ひっしょ》ったは、民が塗炭《とたん》に苦《くるし》んだ、戦国時代の駆落《かけおち》めく。
「何か、お前が出会《でっくわ》した――黒門に逗留《とうりゅう》してござらしゃる少《わけ》え人が、手鞠《てまり》を拾ったちゅうはどこらだっけえ。」
「直《じ》きだ、そうれ、お前《めえ》が行《ゆ》く先に、猫柳がこんもりあんべい。」
「おお、」
「その根際《ねき》だあ。帽子のふちも、ぐったり、と草臥《くたぶ》れた形での、そこに、」
と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、流《ながれ》が白い。
この川は音もなく、霞のように、どんよりと青田の村を這《は》うのである。
「ここだよ。ちょうど、」
と宰八はちょっと立留まる。前途《ゆくて》に黒門の森を見てあれば、秋谷の夜はここよりぞ暗くなる、と前途に近く、人の足許《あしもと》が朦朧《もうろう》と、早やその影が押寄せて、土手の低い草の上へ、襲いかかる風情だから、一人が留まれば皆留まった。
宰八の背後《あと》から、もう一人。杖《ステッキ》を突いて続いた紳士は、村の学校の訓導である。
「見馴《みな》れねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、寝《ね》そべりかかって、腕を曲げての、足をお前《めえ》、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、白鷺《しらさぎ》の鶏冠《とさか》のように、川面《かわづら》へほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、蓬《よもぎ》でなしよ。」
「石竹《せきちく》だっぺい。」
「撫子《なでしこ》の一種です、常夏《とこなつ》の花と言うんだ。」
と訓導は姿勢を正して、杖《ステッキ》を一つ、くるりと廻わすと、ドブン。
「ええ!驚かなくても宜《よろ》しい。今のは蛙だ。」
「その蛙……いんねさ、常夏け。その花を摘んでどうするだか、一束手ぶしに持ったがね。別にハイそれを視《なが》めるでもねえだ。美しい目水晶ぱちくりと、川上の空さ碧《あお》く光っとる星い向いて、相談|打《ぶ》つような形だね。
草鞋《わらじ》がけじゃで、近辺の人ではねえ。道さ迷ったら教えて進ぜべい、と私《わし》もう内へ帰って、婆様と、お客に売った渋茶の出殻《だしがら》で、茶漬え掻食《かっく》うばかりだもんで、のっそりその人の背中へ立って見ていると、しばらく経《た》ってよ。
むっくりと起返った、と思うとの。……(爺様《じいさん》、あれあれ、)」
その時、宰八川面へ乗出して、母衣《ほろ》を倒《さかさ》に水に映した。
「(手毬《てまり》が、手毬が流れる、流れてくる、拾ってくれ、礼をする。)
見ると、成程、泡も立てずに、夕焼が残ったような尾を曳《ひ》いて、その常夏を束にした、真丸《まんまる》いのが浮いて来るだ。
(銭金《ぜにかね》はさて措《お》かっせえ、だが、足を濡らすは、厭な事《こん》だ。)と云う間も無《ね》え。
突然《いきなり》ざぶりと、少《わけ》え人は衣服《きもの》の裾《すそ》を掴《つか》んだなりで、川の中へ飛込んだっけ。
押問答に、小半時かかればとって、直ぐに突ん流れるような疾《はえ》え水脚では、コレ、無えものを、そこは他国の衆で分らねえ。稲妻を掴《つかま》えそうな慌て方で、ざぶざぶ真中《まんなか》で追《おっ》かける、人の煽《あお》りで、水が動いて、手毬は一つくるりと廻った。岸の方へ寄るでねえかね。
(えら!気の疾え先生だ。さまで欲しけりゃ算段のうして、柳の枝を折《おっ》ぺっしょっても引寄せて取ってやるだ、見さっせえ、旅の空で、召ものがびしょ濡れだ。)と叱言《こごと》を言いながら、岸へ来たのを拾おう、と私《わし》、えいやっと蹲《しゃが》んだが。
こんな川でも、動揺《どよ》みにゃ浪を打つわ、濡れずば栄螺《さざえ》も取れねえ道理よ。私《わし》が手を伸《のば》すとの、また水に持って行《ゆ》かれて、手毬はやっぱり、川の中で、その人が取らしっけがな。……ここだあ仁右衛門、先生様も聞かっせえ。」
と夜具風呂敷の黄母衣越《きほろごし》に、茜色《あかねいろ》のその顱巻《はちまき》を捻向《ねじむ》けて、
「厭《いや》な事は、……手毬を拾うと、その下に、猫が一匹居たではねえかね。」
十七
訓導は苦笑いして、
「可《い》い加減な事を云う、狂気《きちがい》の嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに知己《ちかづき》のように話をするが、水潜《みずくぐ》りをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。」
「お前様もね、当前《あたりまえ》だあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、活《い》きた猫なら秋谷中|私《わし》ら知己《ちかづき》だ。何も厭《いや》な事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あか膚《はだ》よ。げっそり骨の出た死骸《しがい》でねえかね。」
訓導は打棄《うっちゃ》るように、
「何だい、死骸か。」
「何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。金壺眼《かなつぼまなこ》を塞《ふさ》がねえ。その人が毬《まり》を取ると、三毛の斑《ぶち》が、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色の汚《きたね》え泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ摺々《すれすれ》での――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れの衣《きもの》を絞るとって、帽子を脱いで仰向《あおむ》けにして、その中さ、入れさしった、傍《そば》で見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五|色《しき》の――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。」
「なあよ、宰八、」
「何《あん》だえ。」
仁右衛門は沈んだ声で、
「その手毬はどうしたよ。」
「今でもその学生が持ってるかね。」
背後《うしろ》から、訓導がまた聞き挟む。
「忽然《こつねん》として消え失《う》せただ。夢に拾った金子《かね》のようだね。へ、へ、へ、」
とおかしな笑い方。
「ふん、」
と苦虫は苦ったなりで、てくてくと歩行《ある》き出す。
「嘘を吐《つ》け、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼん球《だま》のように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。」
「違えます、違えますとも!」
仁右衛門の後を打ちながら、
「その人が、
(爺様《じいさん》、この里では、今時分手毬をつくか。)
(何《あん》でね?)
(小児《こども》たちが、優しい声、懐《なつか》しい節で唄うている。
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ここはどこの細道じゃ、
秋谷邸の細道じゃ……)
[#ここで字下げ終わり]
一件ものをの、優しい声、懐しい声じゃ云うて、手毬を突くか、と問わっしゃるだ。
とんでもねえ、あれはお前様、芋※[#「くさかんむり/更」、169−14]《ずいき》の葉が、と言おうとしたが、待ちろ、芸もねえ、村方の内証を饒舌《しゃべ》って、恥|掻《か》くは知慧《ちえ》でねえと、
(何《あに》お前様《めえさま》、学校で体操するだ。おたま杓子《じゃくし》で球をすくって、ひるてんの飛《とび》っこをすればちゅッて、手毬なんか突きっこねえ、)と、先生様の前だけんど、私《わし》一ツ威張ったよ。」
「何だ、見《みっ》ともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えば可《い》い。」
「かね……私《わし》また西洋の雀躍《すずめおどり》か、と思ったけ、まあ、可《え》え。」
「ちっとも可《よ》かあない、」
と訓導は唾《つば》をする。
「それにしても、奥床しい、誰が突いた毬だろう、と若え方問わっしゃるだが。
のっけから見当はつかねえ、けんど、主《ぬし》が袂《たもと》から滝のように水が出るのを見るにつけても、何とかハイ勘考せねばなんねえで、その手毬を持って見た、」
と黄母衣《きほろ》を一つ揺上《ゆすりあ》げて、
「濡れちゃいねえが、ヒヤリとしたでね、可《い》い塩梅《あんばい》よ、引込《ひっこ》んだのは手棒《てんぼう》の方、」
へへ、とまた独りで可笑《おかし》がり、
「こっちの手で、ハイ海へ落ちさっしゃるお日様と、黒門の森に掛《かか》ったお月様の真中《まんなか》へ、高《たっか》くこう透かして見っけ。
しゃぼん球《だま》ではねえよ。真円《まんまる》な手毬の、影も、草に映ったでね。」
「それがまたどうして消えた、馬鹿な!」
と勢込《いきおいこ》む、つき反らした杖《ステッキ》の尖《さき》が、ストンと蟹の穴へ狭《はさま》ったので、厭な顔をした訓導は、抜きざまに一足飛ぶ。
「まあ、聞かっせえ。
玉味噌の鑑定とは、ちくと物が違うでな、幾ら私《わし》が捻《ひね》くっても、どこのものだか当りは着かねえ。
(霞のような小川の波に、常夏《とこなつ》の影がさして、遠くに……(細道)が聞える処へ、手毬が浮いて……三年五年、旅から旅を歩行《ある》いたが、またこんな嬉しい里は見ない、)
と、ずぶ濡《ぬれ》の衣《きもの》を垂れる雫《しずく》さえ、身体《からだ》から玉がこぼれでもするほどに若え方は喜ばっしゃる。」
十八
「――(この上誰か、この手毬の持主に逢えるとなれば、爺さん、私は本望だ、野山に起臥《おきふし》して旅をするのもそのためだ。)
と、話さっしゃるでの。村を賞《ほ》められたが憎くねえだし、またそれまでに思わっしゃるものを、ただわかりましねえで放擲《ほか》しては、何か私《わし》、気が済まねえ。
そこで、草原へ蹲《しゃが》み込んで、信《まこと》にはなさりますめえけんど、と嘉吉に蒼《あお》い珠《たま》授けさしった……」
しばらく黙って、
「の、事を話したらばの。先生様の前だけんど、嘘を吐《つ》け、と天窓《あたま》からけなさっしゃりそうな少《わけ》え方が、
(おお、その珠と見えたのも、大方星ほどの手毬だろう。)と、あのまた碧《あお》い星を視《なが》めて云うだ。けちりんも疑わねえ。
(なら、まだ話します事がござります、)とついでに黒門の空邸《あきやしき》の話をするとの。
(川はその邸の、庭か背戸を通って流れはしないか。)
と乗出しけよ。……(流れは見さっしゃる通りだ)……」
今もおなじような風情である。――薄《うっす》りと廂《ひさし》を包む小家《こいえ》の、紫の煙《けぶり》の中も繞《めぐ》れば、低く裏山の根にかかった、一刷《ひとはけ》灰色の靄《もや》の間も通る。青田の高低《たかひく》、麓《ふもと》の凸凹《でいり》に従うて、柔《やわら》かにのんどりした、この一巻《ひとまき》の布は、朝霞には白地の手拭《てぬぐい》、夕焼には茜《あかね》
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