るそうな、とぶつぶつ口叱言《くちこごと》を申しましての、爺どのが振向きもせずに、ぐんぐん曳《ひ》いたと思わっしゃりまし。」
「何か、夢でも見たろうかね。」
「夢どころではござりますか、お前様、直ぐに縊《しめ》殺されそうな声を出して、苦しい、苦しい、鼻血が出るわ、目がまうわ、天窓《あたま》を上へ上げてくれ。やい、どうするだ、さあ、殺さば殺せ、漕《こ》がば漕げ、とまだ夢中で、嘉吉めは船に居る気でおります、よの。
胴中の縄が弛《ゆる》んで、天窓が地《つち》へ擦れ擦れに、倒《さかさま》になっておりますそうな。こりゃもっともじゃ、のう、たっての苦悩《くるしみ》。
酒が上《のぼ》って、醒《さ》めずにいたりゃ本望だんべい、俺《わし》ら手が利かねえだに、もうちっとだ辛抱せろ、とぐらぐらと揺り出しますと、死ぬる、死ぬる、助け船引[#「引」は小書き]と火を吹きそうに喚《わめ》いた、とのう。
この中ではござりませぬ、」
と姥は葭簀《よしず》の外を見て、
「廂《ひさし》の蔭じゃったげにござります。浪が届きませぬばかり。低い三日月様を、漆《うるし》見たような高い髷《まげ》からはずさっせえまして、真白《まっしろ》なのを顔に当てて、団扇《うちわ》が衣服《きもの》を掛けたげな、影の涼しい、姿の長い、裾《すそ》の薄|蒼《あお》い、悚然《ぞっ》とするほど美しらしいお人が一方。
すらすら道端へ出さっせての、
(…………)
爺どのを呼留めて、これは罪人か――と問わしつけえよ。
食物《くいもの》も代物《しろもの》も、新しい買物じゃ。縁起でもない事の。罪人を上積みにしてどうしべい、これこれでござる。と云うと、可哀相に苦しかろう、と団扇を取って、薄い羽のように、一文字に、横に口へ啣《くわ》えさしった。
その時は、爺どのの方へ背《せなか》を向けて、顔をこう斜《はす》っかいに、」
と法師から打背《うちそむ》く、と俤《おもかげ》のその薄月の、婦人《おんな》の風情を思遣《おもいや》ればか、葦簀《よしず》をはずれた日のかげりに、姥の頸《うなじ》が白かった。
荷物の方へ、するすると膝を寄せて、
「そこで?」
「はい、両手を下げて、白いその両方の掌《てのひら》を合わせて、がっくりとなった嘉吉の首を、四五本目の輻《やぼね》の辺《あたり》で、上へ支《ささ》げて持たっせえた。おもみが掛《かか》ったか、姿を絞って、肩が細《ほっそ》りしましたげなよ。」
九
「介抱しよう、お下ろしな、と言わっしゃる。
その位な荒療治で、寝汗一つ取れる奴か。打棄《うっちゃ》っておかっせえ。面倒臭い、と顱巻《はちまき》しめた頭を掉《ふ》って云うたれば、どこまで行《ゆ》く、と聞かしっけえ。
途中さまざまの隙《ひま》ざえで、爺《じじい》どのもむかっぱらじゃ、秋谷鎮座の明神様、俺等《わしら》が産神《うぶすな》へ届け物だ、とずッきり饒舌《しゃべ》ると、
(受取りましょう、ここで可《い》いから。)
(お前様は?)
(ああ、明神様の侍女《こしもと》よ。)と言わっしゃった。
月に浪が懸《かか》りますように、さらさらと、風が吹きますと、揺れながらこの葦簀《よしず》の蔭が、格子|縞《じま》のように御袖へ映って、雪の膚《はだ》まで透通って、四辺《あたり》には影もない。中空を見ますれば、白鷺《しらさぎ》の飛ぶような雲が見えて、ざっと一浪打ちました。
爺どのは悚然《ぞっ》として、はい、はい、と柔順《すなお》になって、縄を解くと、ずりこけての、嘉吉のあの図体が、どたりと荷車から。貴女《あなた》は擡《もた》げた手を下へ、地の上へ着けるように、嘉吉の頭を下ろさっせえた。
足をばたばたの、手によいよい、輻《やぼね》も蹴《け》はずしそうに悶《もが》きますわの。
(ああ、お前はもう可《い》いから。)邪魔もののようにおっしゃったで、爺どのは心外じゃ……
何の、心外がらずともの、いけずな親仁《おやじ》でござりますがの、ほほ、ほほ。」
「いや、いや、私が聞いただけでも、何か、こうわざと邪慳《じゃけん》に取扱ったようで、対手《あいて》がその酔漢《よいどれ》を労《いたわ》るというだけに、黙ってはおられません。何だか寝覚《ねざめ》が悪いようだね。」
「ええ、串戯《じょうだん》にも、氏神様《うじがみさま》の知己《ちかづき》じゃと言わっしゃりましたけに、嘉吉を荷車に縛りましたのは、明神様の同一《おなじ》孫児《まごこ》を、継子《ままこ》扱いにしましたようで、貴女《あなた》へも聞えが悪うござりますので。
綿の上積《うわづみ》[#ルビの「うわづみ」は底本では「うわずみ」]一件から荷に奴《やっこ》を縛ったは、爺《じい》どのが自分したことではない事を、言訳がましく饒舌《しゃべ》りますと、(可いから、お前はあっちへ、)と、こうじゃとの。
(可《よ》かあねえだ。もの、理合《りあい》を言わねえ事にゃ、ハイ気が済みましねえ。お前様も明神様お知己《ちかづき》なら聞かっしゃい。老耆《おいぼれ》の手《てん》ぼう爺《じじい》に、若いものの酔漢《よいどれ》の介抱《やっかい》が何《あに》、出来べい。神様も分らねえ、こんな、くだま野郎を労ってやらっしゃる御慈悲い深い思召《おぼしめし》で、何でこれ、私等《わしら》婆様の中に、小児《こども》一人授けちゃくれさっしゃらぬ。それも可い、無い子だねなら断念《あきら》めべいが、提灯《ちょうちん》で火傷《やけど》をするのを、何で、黙って見てござった。私《わし》が手《てん》ぼうでせえなくば、おなじ車に結《ゆわ》えるちゅうて、こう、けんどんに、倒《さかしま》にゃ縛らねえだ。初対面のお前様見さっしゃる目に、えら俺《わし》が非道なようで、寝覚が悪い、)と顱巻《はちまき》を掉立《ふりた》てますと、のう。
(早く、お帰り、)と、継穂がないわの。
(いんにゃ、理を言わねえじゃ、)とまだ早や一概に捏《こ》ねようとしましたら……
(おいでよ、)と、お前様ね。
団扇《うちわ》で顔を隠さしったなり。背後《うしろ》へ雪のような手を伸《のば》して、荷車ごと爺《じい》どのを、推遣《おしや》るようにさっせえた。お手の指が白々と、こう輻《やぼね》の上で、糸車に、はい、綿屑がかかったげに、月の光で動いたらばの、ぐるぐるぐると輪が廻って、爺《じじい》どのの背《せなか》へ、荷車が、乗被《のっかぶ》さるではござりませぬか。」
「おおおお、」
と、法師は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って固唾《かたず》を呑む。
「吃驚《びっくり》亀の子、空へ何と、爺どのは手を泳がせて、自分の曳《ひ》いた荷車に、がらがら背後《うしろ》から押出されて、わい、というたぎり、一呼吸《ひといき》に村の取着《とッつ》き、あれから、この街道が鍋《なべ》づる形《なり》に曲ります、明神様、森の石段まで、ひとりでに駆出しましたげな。
もっとも見さっしゃります通り、道はなぞえに、向《むこう》へ低くはなりますが、下り坂と云う程ではなし、その疾《はや》いこと。一なだれに辷《すべ》ったようで、やっと石段の下で、うむ、とこたえて踏留まりますと、はずみのついた車めは、がたがたと石ころの上を空廻りして、躍ったげにござります。
見上げる空の森は暗し、爺どのは、身震いをしたと申しますがの。」
十
「利かぬ気の親仁《おやじ》じゃ、お前様、月夜の遠見に、纏《まと》ったものの形は、葦簀張《よしずばり》の柱の根を圧《おさ》えて置きます、お前様の背後《うしろ》の、その石※[#「石+鬼」、第4水準2−82−48]《いしころ》か、私《わし》が立掛けて置いて帰ります、この床几《しょうぎ》の影ばかり。
大崩壊《おおくずれ》まで見通しになって、貴女《あなた》の姿は、蜘蛛巣《くものす》ほども見えませぬ。それをの、透かし透かし、山際に附着《くッつ》いて、薄墨引いた草の上を、跫音《あしおと》を盗んで引返《ひっかえ》しましたげな。
嘉吉をどう始末さっしゃるか、それを見届けよう、という、爺《じじい》どの了簡《りょうけん》でござります。
荷車はの、明神様石段の前を行《ゆ》けば、御存じの三崎街道、横へ切れる畦道《あぜみち》が在所の入口でござりますで、そこへ引込んだものでござります。人気も穏《おだやか》なり、積んだものを見たばかりで、鶴谷様御用、と札の建ったも同一《おなじ》じゃで、誰も手の障《さ》え人《て》はござりませぬで。
爺どのは、這《は》うようにして、身体《からだ》を隠して引返したと言いましけ。よう姿が隠さりょう、光った天窓《あたま》と、顱巻《はちまき》の茜色《あかねいろ》が月夜に消えるか。主《ぬし》ゃそこで早や、貴女《あなた》の術で、活《い》きながら鋏《はさみ》の紅《あか》い月影の蟹《かに》になった、とあとで村の衆にひやかされて、ええ、措《お》けやい、気味の悪い、と目をぱちくり、泡を吹いたでござりますよ。
笑うてやらっしゃりませ。いけ年を仕《つかまつ》って、貴女が、去《い》ね、とおっしゃったを止《よ》せば可《よ》いことでござります。」
法師はかくと聞いて眉を顰《ひそ》め、
「笑い事ではない。何かお爺様《じいさん》に異状でもありましたか。」
「お目こぼしでござります、」
と姥は謹んだ、顔色《かおつき》して、
「爺どのはお庇《かげ》と何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。」
「じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。」
「それも心がらでござります。はじめはお前様、貴女《あなた》が御親切に、勿体ない……お手ずから薫《かおり》の高い、水晶を噛《か》みますような、涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、……この手|桶《おけ》から、」……
と姥は見返る。捧げた心か、葦簀《よしず》に挟んで、常夏《とこなつ》の花のあるが下《もと》に、日影涼しい手桶が一個《ひとつ》、輪の上に、――大方その時以来であろう――注連《しめ》を張ったが、まだ新しい。
「水も汲《く》んで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人の許《とこ》へ帰れずば、これを代《しろ》に言訳して、と結構な御宝を。……
それがお前様、真緑《まみどり》の、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。
爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目を密《そっ》と出して、見た時じゃったと申します。
こう、貴女がお持ちなさりました指の尖《さき》へ、ほんのりと蒼《あお》く映って、白いお手の透いた処は、大《おおき》な蛍をお撮《つま》みなさりましたようじゃげな。
貴女のお身体《からだ》に附属《つい》ていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉が賽《さい》ころを振る掌《てのひら》の中へ、消えましたとの。
それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し俯向《うつむ》いて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、お髪《ぐし》の黒い、前の方へ、軽く簪《かんざし》をお挿《さし》なされて、お草履か、雪駄《せった》かの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に女浪《めなみ》のように歩行《ある》かっしゃる。
これでまた爺どのは悚然《ぞっ》としたげな。のう、いかな事でも、明神様の知己《ちかづき》じゃ言わしったは串戯《じょうだん》で、大方は、葉山あたりの誰方《どなた》のか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。
今|行《ゆ》かっしゃるのは反対《あべこべ》に秋谷の方じゃ。……はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。
嘉吉の奴《やつ》がの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠は掴《つか》む、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて歩行《ある》かっしゃるで、機織場《はたおりば》の姉《ねえ》やが許《とこ》へ、夜さり、畦道《あぜみち》を通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、果《はて》は増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、背後《うしろ》から抱きつきおる。
爺どの
前へ
次へ
全19ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング