んだ、顔を俯向《うつむ》けに、撫肩《なでがた》の、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、衣紋《えもん》白く、空色の長襦袢《ながじゅばん》に、朱鷺色《ときいろ》の無地の羅《うすもの》を襲《かさ》ねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、乳《ち》のあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、浅葱《あさぎ》が透き、膚《はだ》の雪も幽《かすか》に透く。
黒髪かけて、襟かけて、月の雫《しずく》がかかったような、裾《すそ》は捌《さば》けず、しっとりと爪尖《つまさ》き軽《かろ》く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果《はて》なき夜の暗さを引いたが、歩行《ある》くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪洞《ぼんぼり》が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかが狗《いぬ》の顔、と思いをめぐらす暇もない。
僧は前に彳《たたず》んだのを差覗《さしのぞ》くように一目見て、
「わッ、」
とばかりに平伏《ひれふ》した。実《げ》にこそその顔《かんばせ》は、爛々たる銀《しろがね》の眼《まなこ》一|双《なら》び、眦《まなじり》に紫の隈《くま》暗く、頬骨のこけた頤《おとがい》蒼味がかり、浅葱に窩《くぼ》んだ唇裂けて、鉄漿《かね》着けた口、柘榴《ざくろ》の舌、耳の根には針のごとき鋭《と》き牙《きば》を噛《か》んでいたのである。
四十三
「おお、自分の顔を隠したさ。貴僧《あなた》を威《おど》す心ではない、戸外《そと》へ出ます支度のまま……まあ、お恥かしい。」
と、横へ取ったは白鬼《はっき》の面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、その顔《かんばせ》を差俯向《さしうつむ》け、しとやかに手を支《つ》いた。
「は、は、はじめまして、」
と、しどろになって会釈すると、面《おもて》を上げた寂《さみ》しい頬に、唇|紅《あこ》う莞爾《にっこり》して、
「前刻《さっき》、憚《はばかり》へいらっしゃいます、廊下でお目に懸《かか》りましたよ。」
客僧も、今はなかなかに胴|据《すわ》りぬ。
「貴女《あなた》はどなたでございます。」
と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。
美女《たおやめ》は褄《つま》を深う居直って、蚊帳を透《すか》して打傾く。
萌黄《もえぎ》が迫って、その衣《きぬ》の色を薄く包んだ。
「この方の、母《おっか》さんのお知己《ちかづき》、明さんとも、お友達……」
と口を結んだが愁《うれい》を帯びた。
此方《こなた》は、じりじりと膝を向けて、
「ああ、貴女が、」
「あの、それに就きまして、貴僧《あなた》にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」
とまた蚊帳越に打視《うちなが》め、
「お最愛《いと》しい、沢山《たんと》お窶《やつ》れ遊ばした。罪も報《むくい》もない方が、こんなに艱難辛苦《かんなんしんく》して、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、母《おっか》さんの恋しさゆえ。
その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を懐《なつか》しがって、迷って恋におなりなすった。
その唄は稚《おさな》い時、この方の母さんから、口移しに教《おそ》わって、私は今も、覚えている。
こうまで、お憧《こが》れなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ申《もおし》とうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に搦《から》んで手に縋《すが》り、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。
どうして貴僧《あなた》、摺抜《すりぬ》けられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、抱緊《だきし》めます。
と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ掟《おきて》。
私たちには自由自在――どの道浮世に背いた身体《からだ》が、それでは外《ほか》に願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、棄身《すてみ》の私、ただ最惜《いとおし》さ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに随《まか》せましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は厭《いと》いはしませぬ。
厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと同一《おなじ》ような身の上になりますもの……
それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、」
とさも懸想《けそう》したらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、
「あれあれ御覧なさいまし。こう言う中《うち》にも、明さんの母《おっか》さんが、花の梢《こずえ》と見紛うばかり、雲間を漏れる高楼《たかどの》の、虹《にじ》の欄干《てすり》を乗出して、叱りも睨《にら》みも遊ばさず、児《こ》の可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の血汐《ちしお》は葉に染めても、秋のあ[#「あ」に傍点]の字も、明さんの名に憚《はばか》って声には出ませぬ。
一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、最愛《いとお》しさに覚悟も弱る。私は夫のござんす身体《からだ》。他《ひと》の妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。
実の産《うみ》の母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、乳《ち》を呑ませたく添寝もしたい――我が児《こ》最惜《いとし》む心さえ、天上では恋となる、その忌憚《はばかり》で、御遠慮遊ばす。
まして私は他人の事。
余計な御苦労かけるのが御不便《ごふびん》さ。決して私は明さんに、在所《ありか》を知らせず隠れていたのに、つい膝許《ひざもと》の稚《おさな》いものが、粗相で手毬《てまり》を流したのが悪縁となりました。
彼方《かなた》も私も身を苦しめ、心を傷《いた》めておりましたが、お生命《いのち》の危《あやう》いまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。
あんまりお心が可傷《いじら》しい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう!
それは今、私がこの邸を退《の》きますと、もう隅々まで家中が明《あかる》くなる。明さんも思い直して、またここを出て旅行《たび》立ちをなさいます。
早や今でも沙汰《さた》をする、この邸の不思議な事が、界隈《かいわい》へ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……」
四十四
「病《やまい》の後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、余所《よそ》の婦人《おんな》が、気軽な腰元の勧めるまま、徒然《つれづれ》の慰みに、あの宰八を内証で呼んで、(鶴谷の邸の妖怪変化は、皆《みんな》私が手伝いの人と一所に、憂晴《うさは》らしにしたいたずら遊戯《あそび》、聞けば、怪我人も沢山《たんと》出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、皆《みんな》の手当をよくするように。)……
と白銀黄金《しろがねこがね》を沢山《たんと》授ける。
さあ、この事が世に聞えて、ぱっと風説《うわさ》の立《たち》ますため、病人は心が引立《ひった》ち、気の狂ったのも安心して治りますが、免《のが》れられぬ因縁で、その令室《おくがた》の夫というが、旅行《たび》さきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。――
その変化沙汰《へんげざた》のある間、そこに籠《こも》った、という旅の少年。……
この明さんと、御自分の令室《おくがた》が、てっきり不義に極《きわま》った、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ籠《こ》めましょう。
貴僧《あなた》。
その美しい令室《おくがた》が、人に羞《は》じ、世に恥じて、一室処《ひとまどころ》を閉切《とじき》って、自分を暗夜《やみ》に封じ籠めます。
そして、日が経《た》つに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、浮名《うきな》が立って濡衣《ぬれぎぬ》着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、果《はて》は恋しく、憧憬《あこが》れる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その思《おもい》と同一《おなじ》事。
一歳《ひととせ》か、二歳《ふたとせ》か、三歳《みとせ》の後か、明さんは、またも国々を廻《めぐ》り、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家|懐《なつか》し、と思いましょう。
そうなる時には、令室《おくがた》の、恋の染まった霊魂《たましい》が、五|色《しき》かがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を吐《つ》く息は、冷たき煙と立《たち》のぼって、中空の月も隠れましょう。二人の情《なさけ》の火が重《かさな》り、白き炎の花となって、襖《ふすま》障子《しょうじ》も燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、灯《ともしび》でもない明《あかり》に、やがて顔を合わせましょう。
邸は世界の暗《やみ》だのに。……この十畳は暗いのに。……
明さんの迷った目には、煤《すす》も香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は名香《めいこう》の薫《かおり》が靡《なび》く、と心時めき、この世の一切《すべて》を一室《ひとま》に縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、令室《おくがた》を一目見ると、唄の女神と思い祟《あが》めて、跪《ひざまず》き、伏拝む。
長く冷たき黒髪は、玉の緒を揺《ゆ》る琴の糸の肩に懸《かか》って響くよう、互《たがい》の口へ出ぬ声は、膚《はだ》に波立つ血汐《ちしお》となって、聞こえぬ耳に調《しらべ》を通わす、幽《かすか》に触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、戦《わなな》く裳《もすそ》と、震える膝《ひざ》は、漂う雲に乗る心地。
ああこれこそ、我が母君……と縋《すが》り寄れば、乳房に重く、胸に軽《かろ》く、手に柔かく腕《かいな》に撓《たゆ》く、女は我を忘れて、抱く――
我児《わがこ》危い、目盲《めし》いたか。罪に落つる谷底の孤家《ひとつや》の灯とも辿《たど》れよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、電《いなずま》となって壁に閃《ひら》めき、分れよ、退《の》けよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、情《なさけ》の露は樹に灌《そそ》ぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の旭《あさひ》の影には瑠璃《るり》、紺青《こんじょう》、紅《くれない》の雫《しずく》ともなるものを。
罪の世の御二人には、ただ可恐《おそろ》しく、凄《すさま》じさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。
そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、児《こ》を思うさえ恋となる、天上の規《のり》を越えて、掟《おきて》を破って、母君が、雲の上の高楼《たかどの》の、玉の欄干《らんかん》にさしかわす、桂《かつら》の枝を引寄せて、それに縋《すが》って御殿の外へ。
空に浮《うか》んだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が倒《さかさま》に百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の霄《そら》へ落ちている。あの、その上を、ただ一条《ひとすじ》、霞のような御裳《おすそ》でも、撓《たわわ》に揺れる一枝《ひとえだ》の桂をたよりになさる危《あぶな》さ。
おともだちの上※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《じょうろう》たちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の音《ね》を留《とど》めて、はらはらと立《たち》かかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、笄《こうがい》がキラキラと、星に映って見えましょう。
座敷で暗《やみ》から不意にそれを。明さんは、手を取合ったは仇《あだ》し婦《おんな》、と気が着くと、襖《ふすま》も壁も、大紅蓮《だいぐれん》。跪居《ついい》る畳は針の筵《むしろ》。袖には蛇《くちなわ》、
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